海はふるさと

敗戦色濃くなってきた1945年(昭和20年)春、
母の実家のあった「中島町小牧」へ疎開しました。
おたまじゃくしで有名になったあの中島町


当時は金沢駅前に住んでいたため、強制建物疎開でした。
結果的に空襲は免れたのですが、
父母は生涯を、私は高校まで能登で暮らしました。


学童疎開はよく知られていますが、
建物疎開とは、大都市の人口や家屋が密集している地域で、空襲による火災の延焼を食い止めるためにあらかじめ建物を破壊しておくのです。


昨日は中島町の「能登小牧台」(のとおまきだい)で
一泊しました。郁代と一緒の里帰りです。





階段を降りると、私の子ども時代に毎日泳いだ海が広がっています。
絵のように美しい海、牡蠣の養殖もさかんです。



すぐ近くに、今は無人となった私の実家があり、夏休みになると、
小学生の郁代も「小牧」のこの海で泳ぎました。
青島をはさんで、向かいに広がるのは能登島
晴れた日は、遠くに立山が姿を現します。


今日は、すぐ近くの「ツインブリッジ」から能登島へ入り、



夫の運転で、能登島を海沿いに走ってから、
能登島大橋」を渡って和倉へ出て帰ってきました。




能登の海と、オーストラリアの海と。

海は郁代のふるさとです。