煩悩が見える



よく読ませていただいている仏教ブログがあります。
 一休道歌を味わうでは、
「さこそ姿の醜(みに)くかるらん」が、深く私を言い当てていると、
感じいりました。有難いことでした。
ここに、転載させていただきます。



煩悩が見える

  人心(こころ)鏡に写るものならば
  さこそ姿の醜(みに)くかるらん

                     (一休道歌 9)



 信仰すれば心がきれいになったり、心がおだやかになって迷いがなくなると思うのでしょう。
あなたもそう思っているのではないですか。
しかし、そうではない。
一休は「心が鏡に写せたら」といいますが、
心は形がないので鏡に写すことはできない。
その形のない心を写すことのできる鏡が智慧というもので、
心をありのままに写す智慧が生じることを仏教では覚りというのです。


 一休も覚りを得ました。
煩悩具足の凡夫たる自分を深く自覚したことでしょう。
煩悩を自覚すればこそ、悟りえぬ自分がますますよく見えてくるというのが智慧の働きです。
悟りえぬことを深く自覚したとき、
悟りを求める心をも捨てて無我に帰することができるのです。
煩悩をも恐れず、悟りにも縛られず、
ありのままの煩悩の生活に充足して生きることができるようになります。