海が念仏している

彦三緑地の黄色のボタンが見ごろです。


海が念仏している・・・
山が念仏している・・・
風が念仏している・・・
郁代が念仏している・・・


お寺のお講があり、念仏に包まれて帰ってきました。
「なむあみだぶつ」


昨日の続き、
新聞連載「親鸞」(五木寛之・作)135より転載しています。

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しかし、親鸞はすぐに顔をあげ、身をおこしてたちあがった。
 そして、一歩前へすすみでた。
心の中に、打ちよせ、くだける波の音がきこえた。
暗く、そして深い海。
 その海の底に親鸞はいた。海草が林のように生いしげっている。
まっ黒な魚が、するりと横をとおりすぎる。手足が重い。
〈なむあみだぶつ〉
と、かすかな声がした。
それは体の奥から自然にわきあがってきた自分の声だった。


 すると頭上から、ほのかな光がさしてきた。
その光は親鸞の泥のような心を、おだやかに照らしはじめた。
「なむあみだぶつ」
と、親鸞はつぶやいた。まばたきすると、自分をみつめている無数の人びとの姿がうかびあがってきた。


 親鸞は風に鳴る旗の音をきいた。
その音は親鸞をはげます自然の声のようにきこえた。
「なむあみだぶつ」
こんどは、はっきりと念仏が口からあふれでた。
 親鸞はさらに一歩、前にすすみでた。そして合掌し、大声で念仏した。
「なむあみだぶつ」

 
やがて親鸞は、念仏をくり返しながら、ゆっくりと木の柱のまわりを歩きはじめた。
 それは比叡山でおこなっていた不断念仏の行ではない。
体の奥に、じっとしてはいられない熱い衝動がこみあげてくるのである。
できることなら、台座の上で跳躍し、はねまわりたいような歓びの衝動だ。
 雨を乞うための念仏ではない。
仏の姿を観るためでもない。
わが身の極楽往生を願う念仏でもない。
自然に体の奥からあふれでてくる念仏である。


 その自分の声を、とめようとしてもとめることができない。
波のように押しよせてくる念仏の声に、身をまかせているだけだ。
「なむあみだぶつ。なむあみだぶつ」
 親鸞は自分がしている念仏を、自分の声とは感じなかった。


海が念仏している。
山が念仏している。
風が念仏している。
人びとみなが心の中で念仏している。
無数の念仏が自分をつつんでいる。


「なむあみだぶつ」
 親鸞はさらに大きく念仏した。
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