ドクダミ

道を歩くと、あっちにもこっちにもドクダミが咲いています。
 星野富弘さんの詩にであってから、
ドクダミが美しくみえるようになりました。
ドクダミが好きになりました。

今なら一輪差し、やさしい気持ちになります。
陰干ししたドクダミを、これからの季節煎じて飲むと元気がでます。
化粧水もつくれると、今日新聞記事で見かけました。


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   ドクダミ


   おまえを大切に
   摘んでゆく人がいた
   臭いといわれ
   きらわれ者の
   おまえだったけれど
   道の隅で
   歩く人の
   足許を見上げ
   ひっそりと生きていた
   いつかおまえを必要とする人が
   現れるのを待っていたかのように


   おまえの花
   白い十字架に似ていた



わたしは、ドクダミという草がきらいでした。
へんなにおいがするし、
どそ黒い葉っぱに、ミミズのような赤い茎が、
じめじめした日陰にはえているのですから、
名まえからして、さわれば、指がくさってしまうような気がします。


 でもわたしは、車椅子にのるようになって、
とってもだいじなことを知ることができました。


 わたしが元気だったころ、
からだの不自由な人を見れば、かわいそうだとか、気味がわるいとさえ思ったことが、ずいぶんありました。


 しかし、自分が車椅子にのるようになって、
はじめてわかったことなのですが、
からだが不自由な自分を、不幸だとも、いやだとも思わないのです。
 けがをして、一、二年は、からだのことでなやんだり、
くるしんだりしました。
でも、うけた傷は、いつまでも、ひらきっぱなしではなかったのです。
傷をなおすために、そこには新しい力が自然とあたえられ、
傷あとはのこりますが、
そこには、まえよりつよいものがもりあがって、おおってくれます。
からだには傷をうけ、たしかに不自由ですが、
心はいつまでも不自由ではないのです。


 不自由と不幸は、むすびつきやすい性質をもっていますが、
まったく、べつのものだったのです。
 不自由な人を見て、すぐに不幸ときめつけてしまったのは、
わたしの心のまずしさでした。


 だから、ドクダミを見たとき、わたしは思いました。
“自分のまずしい心で、花を見てはいけない・・・・・”と。


 そのときから、ドクダミが美しく見えるようになったのです。
ミミズのようだと思っていた赤い茎は、銅の針金のようにたくましく、
いやだったにおいは、ほのかな香料のようでした。
上をむいて、四つにひらいているまっ白い花は、
聖なる十字架のようでした。


 いやだと思っていたものが、美しく見えるようになった。・・・それは、
心のなかに宝物をもったようなよろこびでもありました。
 ドクダミの花の前で、
わたしは、またひとつ、おとなになれたような気がしました。


        「かぎりなくやさしい花々」 星野富弘著(偕成社)より