信に死して

お寺でよくお聴きしていて・・・
家に額がかけてあったなあって、
素通りしていても、やっぱり気になっていた言葉。


『信に死して 願に生きよ』(複製)


五十年前、
親鸞聖人七百回御遠忌法要における曽我量深師の法話だったのですね。
今日の郁代からの手紙でした。



この言葉に、日々新たに出会えていけたらうれしく思います。




「親鸞149」に、こんな場面がありました。
・・・・・
(面目をつぶした戸倉兵衛)

「わしの命じることを、しっかりきけ」
「溜め池に水が十分にたまったら、川筋に一番近い堤を切れ。
わかったか」
・・・・・
その後、どうなったでしょうか。



新聞連載「親鸞」(五木寛之・作)155より転載しています。


「なぜ、とは?」
貞次郎が投げやりな口調で応じた。外道院は、かさねてきいた。
「なぜ守護代の計画をわれらに通報した?」


「親父が嫌いだからさ。ほかに訳はない」
唇をゆがめて薄笑いを浮かべながら、貞次郎はいった。
「おれは子供のころから親父が嫌いだった。
いつかあの偉そうな男に一泡ふかせてやろうと思っていたんだよ。
おれはあの男の得意顔に泥をぬってやりたかっただけさ。
おれは、そもそも侍って商売が大嫌いなんだ。
ここをはなれてどこか他国へいくなら、
ひとつおれも仲間に入れてもらえないかね。
これまでのことは、水に流してさ。たのむよ」(後略)