浄土往生



四方の壁が仏教書で埋められていた部屋で、
寝たきりだった義父が私を呼んでこう言いました。
「有難いことがわかったがや」


アリガタイコトとは・・・
「紫の雲がたなびき、天から妙なる音楽がおこり、
かぐわしい香りがあたりにただよう」
そのような場面を私は想像したのでしたが、
近寄る私に、こう言いました。
「自分が“だちかん者”(愚者)やとわかったことがありがたいがや」
親鸞聖人に遇い続けた義父90歳の言葉でした。



新聞連載「親鸞」激動編(五木寛之・作)185より抜粋しています。



長次は挨拶も抜きで、いきなり言った。
法然上人がお亡くなりになりました。
それをお知らせするために、急いでもどってきたのです」
長次の言葉に、親鸞は愕然とした。
思わずたちあがって、長次の肩をつかんだ。
「それはほんとうか」
長次はうなずいていった。
「先月の25日のことでした」
なにかが割れる音がした。
恵信が洗っていた皿をとりおとしたのだ。


「今年にはいってから、ずっとお具合がよろしくなかったそうですが」
長次の話では、法然上人の臨終がちかいという噂がながれると、
大勢の人々が大谷の房舎のまわりに集まってきたという。
法然上人が浄土往生をとげられるときに、
さまざまな奇瑞がおこることを期待してのことだったらしい。


「しかし、実際には特別なことはなにもおこらなかったようです。
門弟たちの念仏の声に包まれて、静かにお亡くなりになったそうで」


紫の雲がたなびき、天から妙なる音楽がおこり、
かぐわしい香りがあたりにただよう。
そんな光景を人びとは思いえがいていたにちがいない。