三不信



郁代を失ったとき、心から叫びました。
「私は子供を助けたのに、なぜ娘を助けて下さら
なかったのですか?」



当たり前の日常が壊されたとき、このように恨みつらみをいうのが、
偽りのない自分の姿だとはっきり教えられました。



全休さんから届いた、そんな私への手紙は「三不信」でした。
有難うございました。



「三不信」より抜粋


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また、三種の不相応がある。
  一には、信ずる心が純朴でない。信じたり疑ったりするからである。
  二には、信ずる心が(専)一でない。決定がないからである。
  三には、信ずる心が継続しない。
      ほかの念(おもい)がまじるからである。
この三つは、たがいに展開しあってなりたっている。




仏の救いの力は、
すでに、わたしたちの内に仏性(=智慧)として成就しているのですから、これから努力して身につけなくてはならないものはない、ということです。内在する仏の力が自然に働き出すように、
自分の努力を無駄に加えて仏力が働くのを邪魔しないことです。
泳げない人は、水に浮こう浮こうと藻掻いて沈んでいきますが、
水に体を任せばかえって自然に浮かぶようなものです。
理屈が分かって浮くのではありません。
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また、郁代に遇えたなあと思いました。