いつも心がつながっている
上高地にて
昨日はすぐ近くの湯涌温泉で会合があり、
隣に座ったKさんと食事しながら久しぶりにおしゃべり。
私の子供と同年齢のKさんは、
受験生の進路でもめる親子の葛藤を話されます。
どこにでもある話・・・今思えばなつかしいなあ。
亡き娘の話題になり、
私 「娘の闘病中、家庭内に漂う緊張がストレスとなり、夫が感情をむき 出しにして、そっちに付き合う方が大変だったんだよ。
そのことが悔しいよ」
Kさん「わかる。わかる。
今の我が家がそれ、娘の気持ちはそっちのけ・・」
「ところで、そんな許せないことがあったのに、
どうして仲良く富士登山できるのか、そこがよくわからないわ!」
私 「両親が仲良くすることを、郁代が望んでいると思うからだよ」
「それに、“許せない相手”以上にお粗末な自分がいるのでね」
「仏さまがわたしを憶念し、わたしも仏さまを憶念する」
仏さまが郁代のように思えました。
有難うございました。
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南無阿弥陀仏
「南無」とはわたし、「阿弥陀仏」は仏さま。
仏さまがわたしを憶念し、わたしも仏さまを憶念する。
仏さまとわたしがいつも憶(おも)い憶われ、いつも心がつながっていることを「南無阿弥陀仏」といいます。
一緒であることを思い出し、
一緒であることが嬉しくて自然と念仏が口をついて出てきます。
わたしがわたしでいられるのは、いつも仏さまに憶われているからです。自分が誰なのか見失わないのは、仏さまにいつも見守っていただいているからです。
これを正念といいます。
物欲や金銭欲、卑しい性欲や他者への悪意の濁流にもまれながらも、
かろうじて狂わずにいられるのは念仏があるからです。
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