御同朋

紫式部





昨日の続き
新聞連載「親鸞」激動編 275(五木寛之・作)より転載しています。
 風雨強かるべし(8)


 親鸞は膝をのりだして、弁円にいった。
「おすくいくだされ阿弥陀さま、ではない。
われらの念仏とは、自分がすでにしてすくわれた身だと気づいたとき、
思わずしらず口からこぼれでる念仏なのだ。
おお、このようなわが身がたしかに光につつまれて浄土へ迎えられる。
なんとうれしいことだ。
疑いなくそう信じられたとき、人はああ、ありがたい、とつぶやく。
そして、すべての人びとと共に浄土へいくことを口々によろこびあう。
その声こそ、真の念仏なのだ。
そなたも、わたしも、身分も、修行も、学問も、戒律も、
すべて関係なく、
ひとはみな浄土に迎えられるのだ。
地獄へおちたりはしない。
そのことを確信できたとき、念仏が生まれる。
ただ念仏せよ、とは、それをはっきりと感じとり、
ああ、ありがたい、とよろこぶべし、ということなのだ。


「その念仏を学びとうございます」
と、弁円はいい、その自分の言葉におどろいた。
床に手をついて頭をさげている自分がふしぎだった。
親鸞さまの弟子にしてくださいませ」
「念仏の道に、師匠、弟子ということはあるまい」
と、親鸞はいった。
「ともに念仏する仲間だ。われらはそれを、御同朋(おんどうぼう)とよぶ」                      (抜粋)