「それでも人生にイエスと言う」

「それでも人生にイエスと言う」(V・E・フランクル著)



人間はあらゆることにもかかわらず――困窮と死にもかかわらず、
身体的心理的な病気の苦悩にもかかわらず、
また強制収容所の運命の下にあったとしても――人生にイエスと言うことができるのです。(山田邦男・松田美佳訳、春秋社)




この言葉に触れる時、郁代の最期の言葉,
「これまで、お母さん、完璧やったわ。
必要なもの、必要なことが、いつも直ぐに用意されていたもの…」
を思い出さずにはいられません。


(身体的心理的な苦悩、死の恐怖にもかかわらず)
「それでも人生にイエスと言う」
と、私には聞こえたからです。




今日の『こころの時代   生きる意味を求めて』は、
翻訳者の山田邦男さんがゲストでした。
東北の被災された方へ語りかける番組のようでした。
被災地の方達を想い、フランクルの言葉から引用、
「・・・『心のなかが爆撃を受けた』といえば、こんにちの人々の気分、
心境は、もっとも的確に特徴づけられるのです」





Beiー Sein   〜の元にあること





フランクルがたどりついたところは“自然”(じねん)






とてもなつかしいひびき・・・
親鸞聖人の教え「自然法爾」(じねんほうに)が浮かんできました。
          *全休さんのブログにリンクさせて頂きました。





対談の様子





山田邦男さんとV・E・フランクル(1905〜1997)







コペルニクス的ともいえる転換」についてお話されました。


(本文では)
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 あるとき、生きることに疲れた二人の人が、
たまたま同時に、私の前に座っていました。
それは男性と女性でした。
二人は、声をそろえていいました。
自分の人生には意味がない、「人生にもうなにも期待できないから」。
二人のいうところはある意味では正しかったのです。
けれども、すぐに、二人のほうには期待するものがなにもなくても、
二人を待っているものがあることがわかりました。
その男性を待っていたのは、未完のままになっている学問上の著作です。
その女性を待っていたのは、子どもです。
彼女の子どもは、当時遠く離れた外国で暮らしていましたが、
ひたすら母親を待ちこがれていたのです。
そこで大切だったのは、カントにならっていうと、
コペルニクス的」ともいえる転換を遂行することでした。


それは、ものごとの考えかたを180度転換することです。
その転換を遂行してからはもう、
「私は人生にまだ何を期待できるか」
と問うことはありません。いまではもう、
「人生は私になにを期待しているか」
と問うだけです。
人生のどのような仕事が私を待っているかと問うだけなのです。


 ここでまたおわかりいただけたでしょう。
私たちが「生きる意味があるか」と問うのは、
はじめから誤っているのです。
つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。
人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。
私たちは問われている存在なのです。
私たちは、人生がたえずそのときそのときに出す問い、
「人生の問い」に答えなえればならない、
答を出さなければならない存在なのです。
生きること自体、問われていることにほかなりません。
私たちが生きていくことは答えることにほかなりません。
そしてそれは、生きていることに責任を担うことです。
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本文にある、次のようなお話にも触れていたように思いました。
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それよりは、つぎのような思考実験をするだけにしておきたいものです。
ぜひ思い浮かべてみてください。
あなたは、コンサートホールにすわって、大好きなシンフォニーの大好きな小節が耳に響き渡っているところです。
あなたは、背筋がぞくっとするほどの感動に包まれているとします。
そこで、想像していただきたいのです。
心理学的には不可能でも、思考実験は可能だとおもいます――その瞬間にだれかがあなたに「人生には意味があるでしょうか」とたずねるのです。


そのときたった一つの答えしかありえない、それは
「この瞬間のためだけにこれまで生きてきたのだとしても、
それだけの甲斐はありましたよ」
といった答えだと私が主張しても、みなさんは反対されないと思います。


 けれどもまた、芸術ではなく自然を体験した人にしても、おなじことでしょうし、ひとりの人間を体験した人にしてもおなじことなのです。
ある特定の人を目の前にして心を捉えるあの感情、言葉で表現すると、
「こんな人がいるだけでも、この世界は意味をもつし、
この世界のなかで生きている意味がある」
とでもいいたくなるような感情は、だれもがよく知っています。
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