赤尾の道宗

五箇山赤尾の行徳寺は、道宗さんの開基の寺として継承されています。


道宗さんの、慢心を許さぬよう四十八本(四十八願をあらわしています)の割れ木の上に横臥なさっている像があり、
行徳寺にお参りすると拝むことができます。




「後生の一大事、命のあらん限り、油断あるまじき事」





棟方志功  道宗行臥の版画



棟方志功画伯が行徳寺を訪れ、
道宗行臥の木像を拝して彼の念仏者なり・人となりに感銘して、
道宗行臥の版画をつくられました。
その他蓮如上人・道宗にまつわる宝物が、境内にある資料館にたくさん収められています。



私も三度訪れました。
また私の近隣のお寺の法座でも、
道宗さんのお話はことあるごとにお聞きしていて、
とても親しみを感じます。



念仏者の道宗より

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五箇山の赤尾に、室町時代の中期、真宗篤信の念仏者といわれる弥七さんという人がおられました。


弥七さんは四歳の時に母、十二歳で父と死別されました。
父の遺言により、父母に会いたいならば、九州の羅漢寺に行けば、五百羅漢の中に、親に似た顔の羅漢さんに会えると思い、
二十歳の時、旅立ちをしました。
その道中において、ある念仏者の勧めにより、縁あって蓮如上人を訪ねることができました。


この蓮如上人との出会いが、一生の転機となりました。
弥七さんは九州の羅漢寺参りをやめて、蓮如上人のもとで、しばらくの間、聞法につとめられました。


「善知識といふは、阿弥陀仏に帰命せよといへるつかひなり」(註釈版聖典・1127頁)と、善知識・蓮如上人にお会いできました喜びに、家に帰ることも、寝食も忘れて聞法に精を出され、法名を「道宗」といただいて、お念仏の生活を続けていかれました。


道宗さんは、年に二回か三回は必ず遠路はるばる山科御坊までお聴聞に参られました。
また、越中井波の瑞泉寺には、月に一回は必ず参られたと伝えられています。勤行の時は必ずついて読経され、
「お経にあわないのは三年の不作(作物の不作)にあうようなものよ」
と、いつも申されていました。


お説教を聴聞されるお同行さんの中には、お経にあわず、説教のはじまりに間に合ったことを、
「ちょうどよかった。やっと説教に間に合って」
と、このように言う人もおられますが、道宗さんの意見によれば、このようなことを言うのは間違いであって、
お経にあうということは、仏のご説法を聞かせていただくことであり、
そのご説法の教義内容を、布教される方がたが説き述べられるのですから、お経の縁に続いて聴聞されることが肝要かと思います。


聴聞の「聴」の字は耳で聞くことであり、
「聞」という字は心で聞くことです。


それ故に親鸞聖人は、
本願成就文の「聞其名号 信心歓喜」の経意を解釈されて、


「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、
これを聞といふなり 、とお示し下さいました。(同251頁)
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また道宗さんは、真宗念仏者の生き方として、「21箇条覚書」を残されました。                                                              


その第一条には
「後生の一大事、命あらん限り、油断あるまじき事」
と述べられてあります。


また、第二条には
「仏法よりほかに心にふかく入る事候は、あさましく存じ候て、すなわち、ひるがえすべきこと」
等と述べられてあります。

道宗さんにおいては、仏法が日々の生活の中にしみこんでいるからこそ
善導大師のおっしゃる
「念々称名常懺悔(じょうさんげ)」
の生活が続けられたことと思います。

〈逸話〉
蓮如上人のもとで聴聞に年月を重ねた道宗は赤尾に帰って、
一日の嗜みと共に一月の嗜みとして当時蓮如上人の居られる井波の瑞泉寺へ参詣していました。
ある元旦の晨朝(朝のお勤め)にお詣りするため峠の峯まで登ったがその年、雪深く先へ進めずとうてい朝の勤行に間に合わぬと思い、
「懐中仏」をとりだし念仏していました。
突然雪の中に船を曳いたような道がひらけており、
それをたよりに無事井波へ着くことができました。
まちかねていた上人は鐘と太鼓を同時にならし、勤行を始められました。
以来井波の瑞泉寺の元旦のお参りには、
鐘と太鼓を同時に打ち鳴らすようになったということでありました。





行徳寺の隣にある岩瀬家




国指定重要文化財、岩瀬家は建築年代はおおよそ江戸末期に建築されたようで、五箇山における塩硝の上煮役をつとめた藤井長右工門の住宅と役宅を兼ねた建築物です。
建物の半分は総禅造りで全体的に太い木材を多く使用し、美しい仕上げになっています。
五箇山地方の民家としては最大規模の合掌家屋です。