「無心ということ」1
鈴木大拙館が「無心ということ」を
企画展示しているので先日観てきました。
県立美術館裏から清流に沿って繁みを下りると中村記念美術館前に出ます。
次に大拙館へ通じる「緑の小径」へと向かいます。
私のために作られた道のような・・・
この道は地元の人しか知らないかも。
森の中を進みます。ひんやりとしてとても気持ちがいいです。
一帯が思索の森ですね。
この裏道を出ると、正面入口につながっています。
場所は兼六公園近く、21世紀美術館の向かい側前方に位置します。
鈴木大拙館は、
ここ金沢市本多町に生まれた世界的な仏教哲学者鈴木大拙の生涯に学び、
その思想に出会う場所です。
「鈴木大拙のことば」カードをいただきました。
星を仰ぐ人も、
その足はやっぱり大地についているのだ。
(生はすべての依拠であり生を離れては何物も存在し得ない。
如何なる哲学を以てしても、
いかに偉大で力強い観念を以てしても、
我々はあるがままの生を脱することはできぬ。
星を仰ぐ人も、その足はやっぱり大地についているのだ。
「禅学への道」より)
「生ま知り」の人に限って、頭を分別でいっぱいにする。
(無智の人は、智力をいまだ目ざまさぬから、
素朴のままにある。賢い人は智力のかぎりを
尽くしているから、もはや、それに頼らない。
両者は睦まじい隣同士である。
「生ま知り」の人に限って、頭を分別でいっぱいにする。
「禅と日本文化」より)
以前にもブログで書いたのですが、
鈴木大拙『妙好人』(法藏館)には、「森ヒナさん」のお話が載っています。
ヒナさんの“この煩悩あればこそ”、
思い出すたびに心が温まります。
ヒナさんは石川県の方なので、お寺の法話でもよくお聴きしたことがあります。鈴木大拙博士が、北陸のこのお婆ちゃんに是非会いたいといって出会いが成立しました。
ヒナさんは、
『わが機、ながめりや、あいそもつきる、わがみながらも、いやになる。
ああ、はづかしや、なむあみだぶつ』
『いやになるやうな、ざまたれ、ばばに、ついてはなれぬ、おやござる。
ああ、ありがたい、なむあみだぶつ』
と、自分では文字が書けぬので、我が子に書いて貰っています。
ヒナさんは、いやになるよな煩悩だらけのザマタレ婆であると歌っていますが、その歌を取り上げて、
大拙師「わが身ながらもいやになると書いてあるが、これあんたの煩悩やろ。この煩悩、半分わしに分けてくれんか?」
ヒナさん「いや、あげられん」
大拙師「なんでや?あいそもつきるような煩悩なら分けてくれんか?」
ヒナさん「いや、これは分けられん」
ヒナさん「この煩悩あればこそ、この煩悩照らされて(如来さんというはたらきに)であえたんや」
大拙師「そうやったな、儂もおばあちゃんの二倍も三倍も煩悩もっとるさかい、お互い、この煩悩大切に生きていこうな」