この私が救われなければ
きのうまでの2日間、仲間の皆さんとの小旅行でした。
富山県神通川リバーサイドの宿で、
南砺市真教寺住職 馬川透師のお話をお聞きしました。
馬川(ばがわ)師は、例話を交えながら
宮城邈(しずか)師の言葉を紹介してくださいました。
地獄とは 「ごめんなさい」が言えない世界
餓鬼とは 「ありがとう」が言えない世界
畜生とは プリーズ、「どうぞ!」が言えない世界 です。
また、郁代と同じ頃に奥さまを亡くされていて、
その後の経験などもお話しくださいました。
奥様と月命日が同じだったり・・・心に沁みました。
奥様のお話し、ネットで出会いましたので転載させていただきます。
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笑顔の妻 馬川 透 2009年5月
「お父さん!今日、中学校の美術室に行って、お母さんの絵を取りに行くから、車に乗せてって。」
今年の3月に中学校を卒業した次女が、3年前に死別した妻の顔を画いた作品を、一緒に取りに行ってほしいとせがむ。
娘は、妻の顔をどんな風に画いたのだろうか。
寂しい表情か、それとも物思いにふけった表情なのだろうかと、いろいろと想像していたのだが、実際、美術室で手にした絵に画かれている妻は、白い歯を出して笑っていた。
屈託のない顔で、ケラケラと笑っていて、寂しさなんて微塵も感じられない表情であった。
私は、3年前に、16年間共に過ごした妻と死別した。
2人の娘達は、「死ぬ間際のお母さん、絶望的な顔をしていた。」と今でも言う。
亡くなる2年程前から体調を崩していて、コタツに首まで突っ込んで、
絶望的な表情で天井を見つめていた。
だから、暗い表情の顔かと思いきや、娘のイメージする妻は、笑っている妻であった。
振り返ってみると、この3年間、私達の方が、泣いてばかりいた。
娘達も困ったことがあると「あーあ、こんな時お母さんがいてくれたらなあ。」と漏らすことがあり、私達の方が嘆いてばかりの3年間だった。
いつの間にか生きている私達の方が幸せで、死者をかわいそうな存在という一方的な見方でしか死者を見ていなかったなあと教えられた。
毎年、1年間に自殺者が3万人を超えていることが報道されている。
1年間で、ひとつの都市が消滅する数である。
大変悲しむべきことである。
そして残された家族にとっても、つらいことである。
でも、自殺をした人は、弱くて間違っていて、生者は、強くて正しいのだろうか。
自殺をした人達は生きる意味を見出せず、私達は生きる意味がはっきりしているのだろうか。
死者に対する眼が一方的になっていないだろうか。
『歎異抄』の第五章に、親鸞聖人が、
「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず」
と言っておられる。
亡くなった父母への供養のために念仏したことは、いまだかつて一度もないと、大変センセーショナルなことを述べておられ、さらに「いずれの業苦にしずめりとも、神通方便をもって、まず有縁(うえん)を度(ど)すべきなり」とも述べておられる。
このことについて、故 宮城邈師が市民公開講座「さいたま親鸞講座」で、
「私はこの有縁とは自分だということを思っております。
私にとって縁ある存在は、私自身なのです。
この私が救われなければ何もない。
まず有縁を度すべきなりというのはそういう、つまり私どもは自分の人生に責任がある。
自分の人生に誰も責任を持ってくれませんね。
この人生に責任を持つのは私自身、私一人でございましょう。
この有縁という言葉は私はまさに一切の有情(うじょう)を世々生々(せせしょうじょう)の父母兄弟として、このいのちを賜ったこの私を救うか救わないか。
この私が救われてなければ何の営みも決して供養にならないわけです。」
と語っておられる。
宮城 邈師は、妻に死なれて右往左往して嘆いているこの私自身の身の始末がはっきりしないと、妻を供養することにならないのではないかと、語り教えておられるのではなかろうか。
最近、娘が画いてくれた絵を枕元に置いて寝起きしている。
嘆いて暗い顔をしている私を、妻は屈託のない顔で今日も見ていてくれる。
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馬川透師はシンガーソングライターとしても活躍されていて、
素敵なギターの弾き語りをしてくださり感動しました。
動画を見つけました。最後の2曲がこの日お聴きした
「そよかぜ」 「あいうえお いろはにほへと」です。