み手の真ん中  仏の声を聞く 3

浅野川上流 鮎釣り 


きのうの続きです。
                 東光寺住職  東井義雄                        
                 ききて    笠井三根夫


笠井:  そういうことを「生きてよし、死してよし」ということなんでしょうかね。
 
東井:  そうだと思いますね。
それにつきまして、私も、この人生という学校で一番大切な勉強は、自分の死ということをどんなふうにお聞きし、乗り越えていくか、ということだと思いましたので、若い頃から死の問題は、浄土真宗のものだけではなくて、禅宗のものも、真言のものも、キリスト教のものも、ほんとに一所懸命勉強したつもりでしたが、
なかなかいつ死んでもよろしい、という世界には至らないわけですね。
「死にともない心」を超えることができないのです。
困りに困って、挙げ句、私にハッと目覚めさして下さったのが、
歎異抄』第九のお言葉でした。
唯円房さんという親鸞聖人のお弟子さまが、お師匠さまの親鸞聖人にお尋ねされるわけです。

 
   念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころ
   おろそかにそうろうこと、またいそぎ浄土へ
   まいりたきこころのそうらわぬは、いかにと
   そうろうべきことにてそうろうやらん

 
「お念仏は申しておりますが、いっこう嬉しくもありませんし、急ぎ浄土へ参りたい心もございませんが、どういうことでございましょうか」
という質問をしているんです。
「あ、唯円房さまは、後の世に生まれてくる「死にともない私」に代わって「私」のために、この質問をしてくださったのだ」と思いました。
その質問に対して親鸞聖人が、「死にともない私」をお叱りになるのではなく、
 
   親鸞もこの不審ありつるに、
   唯円房おなじこころにてありけり。

 
と、「死にともない私」のためにお答えになってくださって、
「急ぎまいりたき心のなき者が仏さまのお目当てなんだ。急ぎ参りたい心が必ず救われるという証拠なんだ」
というお答えをされているわけです。
それが親鸞聖人のお言葉ですが、

 
なごりおしくおもえども、娑婆の縁つきて、ちからなくしておわるときに、かの土(ど)へはまいるべきなり。
いそぎまいりたきこころのなきものを、ことにあわれみたもうなり。

 
「なごりおしくおもえども、娑婆の縁つきて、ちからなくしておわるときに」と、喜び勇んでではなくて、しょうことなしに終わるとき、
「かの土へはまいるべきなり。いそぎまいりたきこころのなきものを、ことにあわれみたもうなり」と、
それが救いの目当てだ。
すごい言葉ですね。
「死にともない私」のままでよかったのです。
「死にともない私」を「殊勝な私」にする必要はなかったのです。
「死にともない私」を「殊勝な私」にする力など「私」にはなかったのです。その証拠はいっぱいこちらにはあるわけです。


急ぎまいりたい心はありませんし、天に踊り、地に踊るほどに嬉しいこともない。
「死にざま」を取り繕う必要なんか、微塵もなかったのです。
七転八倒、「死にともない」と、わめきながら終わっても間違いなく、
摂め取っていただける世界が既に成就されていたのです。
これがこのままお目当てであった。
頭が上がらなくなりました。

 
笠井:  そういうことで、先生の信仰心というのは、あるところでは固まってしまった、ということなんですか?
ただ、それだけではないわけなんですか?

 
東井:  人生で一番大事な勉強は、これでもう終わらせて貰った、という思いがあったんです。
ところが大変なことにぶつかりました。
今年三月、私の後継者―寺の後継者ですね、頼りにしている息子が小学校の教員をしているわけですが、
体育の時間、子どもと一緒に走っております時、突然倒れてしまいまして、すぐ病院に運んでもらった時には、呼吸も心臓も停止して、すぐ人工呼吸をやって頂き、今も二百七十何日目、意識が戻らないまま病院のベッドに横たわっているわけです。
頼りにしていたものが、そんなことになって、私、死ぬにも死ねんことになってしまったわけです。
自分の死よりも、もっと大変な勉強をしないと、人生学校の卒業はさせて貰えない、ということなんですね。


「人生という学校」は厳しいわけです。
「代わってやれない」ということ。
師範の時に、「代わるものあることなし」という言葉に大変ショックを受けたんですが、どんな荷物であろうと、例え、七転八倒の苦しみであっても、私は「代わってくれ」なんて泣き言を言わないで、「背負っていくぞ」という思いがありました。
三年前、癌の手術を受けたわけですが、その時もどんなに七転八倒の苦しみで命を終わることになっても、
如来様の願いがある以上、安心して七転八倒させて貰えるぞ、という思いがありましたので、手術室に送られる道中で、みんなが「頑張れ!頑張れ!」と言ってくれるわけですが、こちらには頑張る必要も何にもないわけです。ほんとに爽快な気持だったわけですが、息子のその問題に出遇って、
「代わって貰えないことよりも、代わってやれないことが、こんな厳しい辛いことであったか」ということにぶつかったわけです。

 
笠井:  そうしますと、まだまだ例えば自分の死よりか、もっともっと勉強しなければならない厳しい学習をしないとなかなか卒業はできない。
 

東井:  ところがそのことについても、目覚めさせて貰っていますと、如来さま自身が、私に代わってくれることが出来ない。
代わってやれないからこそ泣かずにはおれない。
そういう如来の大悲の中の私の悔やみ事であった、と目覚めさして貰った時、「私一人が代わってやれないことを嘆いているのではなくて、如来さんと一緒にこの苦しみを味合わせて貰っているんだ」
と思いますと、なんか救われた気持がしてきましてね。

 
笠井:  その辺が、先生の信仰の頂点と言いますか、辿り着いた最高峰と言いますか、それにはやはり息子さんのこともありましょうし、大変なことがあった、ということなんですね。
しかし、どうなんでしょう。
一般の人がそういう信仰でほんとに救われるんだろうかというふうに思っている人も、随分いらっしゃるんじゃないかと思うんですが。

 
東井:  現に村のみなさんが、
「ずーっと如来さまのお給仕をしてきた住職が、癌にとりつかれて手術を受け、大事なお寺の後継者が、若いのに、突如、意識まで失ってしまったという事実に対して、こういう思いがけないことに出遇うのに、如来さまは、一体何していらっしゃるのか」
という疑問を持っていることを感じるわけです。
実際、みなさんの中には、
「仏さまというのは、何でも、どんなことでもなさり、そして仏さまの意志に逆くものには罰をお与えになる方だ」
というふうに頂いている方が随分あるように思うんですけれども。


ところが、これは、こういうことに直面しなければならない「因」や「縁(条件)」が、私どもの側にあったのです。
誰かが与えたものでなくて、私どもが、知らず知らずのうちに、いつの間にかつくっていた「因」や「縁」が、とうとう熟して、こういう「果」になってあらわれたのです。
仏さまでも因果の道理をお曲げになることはできないですね。
息子の場合を考えてみましても、一緒に走っておりました子どもの話ですと、倒れる前に胸に手を当てていた。
キッと心臓が、「大変だ! 休め!」と叫んでいた、と思うんですね。
如来さまも「大変なことになるぞ! 早く休みなさい!」と必死に叫んでいてくださった。
ところが毎朝毎朝ズーッと子供たちと走り続けてきた息子です。
日本列島、南から北まで縦断するほど走ってきた息子です。
これぐらいなことは、と思って、結局、その信号を無視したんでしょう。
信号を無視した以上、信号無視の結末が、どんなに厳しいものであっても、息子が背負う以外仕方がない。
これが「代わるものあることなし」ということなんです。

 
笠井:  しかし、悲しいもんですね。

 
東井:  しかし、その仏さまが代わってやれないからこそ泣かずにおれない。そんな仏さまの願いがやっぱり私のうえにも息子のうえにも全然意識のない、自分で呼吸する力もないものが生かされて、植物人間ではありますけど、生かされてある、ということは、
まだ如来さまが願いをかけてくださっている、ということであり、私も今日も一緒に生かさして頂いている。
いつ壊れても少しも不思議でないシャボン玉が、今日も御蔭様で、親も子も一緒に今日を迎えさせて頂いている。
そこには大きな願い働きがある、ということですね。
私が、息子に代わってやれないように、如来さまも、私にも、息子にも、代わってくださることができないのだと、気づかせていただきました。
如来さまのお悲しみの中でも、一番きびしく深いお悲しみは、代わってくださることのできないお悲しみであるのではないでしょうか。

 
笠井:  しかし、普通の人はなかなかそういうふうに、いわゆる悟れないと言いますか、いろいろなことを東井さんにおっしゃる方もいらっしゃるんじゃないですか。村人の方以外に?

 
東井:  村人の方以外にも、
「できたら私も鈴木さんのようになりたい。でもどんなに頑張ってみても、鈴木さんのようになれないのは、どういうことか?」
という疑問を持っていらっしゃるお年寄りがあるらしいんですね。
そういう頼りを読んでみますと、
蓮如上人の『蓮如上人御一代記聞書』の中に、
 
「その籠を水につけよ、わが身をば法に浸しておくべきよし、仰せられ候ふよしに候ふ」 
というおことばがあるのです。
「私たちは努力しても努力しても汲み取ったものが、みんな流れ出てしまう籠のような身の上だった。
いくら汲み上げようとしても、ああ、これで救われた、という状態にはならない。みんな流れて出てしまう。
その私を水の中に浸けてしまうのだ」
とおっしゃっているわけです。


このことは親鸞聖人のお経の読み方のうえにも現れているわけでございまして、『仏説無量寿経(大経)』の中に、

 
     至心廻向  (至心に廻向(えこう)し)
     願生彼国  (彼の国へ生まれんと願ずれば)
     即得往生  (即ち往生を得)
     住不退転  (不退転に住(じゅう)せん)
                          (仏説無量経)
 
という言葉が出てくるわけですが、「至心に廻向して、彼(か)の国に生まれんと願ずれば、即ち往生を得、不退転に住せん」というふうに、
浄土系の方もみんなそんなふうにお読みになってきたわけです。


ところが親鸞聖人は、その「至心に廻向して」と、みなさんが読んでこられたところを、『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』の中で、「至心に廻向したまえり」と送り仮名つけていらっしゃるんです。
こちらからひたすら至心に―一生懸命に仏さまにお願いし、ひたすらに廻向し―努力するのではなくて、
仏さまのひたすらなる願いであり、ひたすらな仏さまのお働きによって、私は救われた。
こちらから如来さまへの「至心」「廻向」ではなく、「如来さま」から「私」への「至心」であり「ご廻向」であることを親鸞聖人は、お教えくださっているのです。
この言葉をまことによく受け継いでいらっしゃるのが、法如(ほうにょ)上人という方のお言葉ですが、

 
   助けてくだされよ、というにあらず
   助かってくれよ、とある仰せに
   従うばかりなり
                     (十七世法如上人)

 
という言葉があるわけです。
「助けてください」とこちらからお願いするのではなくて、
「助かってくれ」という仰せに従うばかりなり。
こちらが水を汲み上げるのではなくて、私の全体をお救いのお慈悲の中に浸させて頂くんだ、ということなんですね。
このことを、私に一人妹があるんですが、妹も乳癌の手術を致しまして、近頃は高血圧で、ずーっとお医者さんのお世話になっているようですが、
その妹が手紙を寄越しました。

 
   お互いに、ひび割れた古茶碗の身の上で、
   いよいよ終着駅が見えてきた感じです。
   しかし、いつこわれてもみ手のまんなかで
   あることをしあわせに思います
 

という手紙をくれました。私はすぐ返事を書いたんですが、
 
  
   全く、同感。こわれて拾っていただくのであれば、
   ひょっとして、如来さまがお目こぼしをなさったら
   ・・・という不安も残るが、ひび割れて汚れた
   古茶碗である現在ただ今み手のまんなかなのだから、
   いつ、どんなこわれ方をしても、大安心だね
 

と書き送ったことでした。壊れても、いつでも、どこでも、み手の真ん中ということなんですね。
 

笠井:  しかし、こちらから拝んで救いを求めるんじゃなくて、いわゆる仏さまが、例えば心臓が動いているとか、目が見えるとか、話ができるとか、

 
東井:  私が見ているつもりですけど、見させて頂いているんですね。
聞いているつもりですけども、聞かせて頂いている。
聞く耳も何もかもみんな頂き物なんですね。
呼吸もそうです。
心臓もそうです。
生かされているみ手の真ん中の私たちなんですね。
どうしてもお祈りがしたい。
お祈りするのが、仏さまであり、神さまである、という頂き方が随分根強くみなさんの胸の中に根を張っているようなんですね。


そうでなくて、拝まない先から拝まれている。
仏さまの方から
「どうぞしっかり頑張って生きてくれよ。
どんな苦悩も乗り越えて生きてくれよ、
と拝まれ、祈られ、願われている私だ」
ということなんですね。
そうなってみますと、そのことに、こちらがする余地は何にもない。
大きな願いの水の中に、私の全体をすっぽり浸(ひた)らせて頂く以外にないわけです。
このことは、親鸞聖人や浄土真宗だけではなくて、曹洞宗道元禅師も同じ味わいをお持ちになっていたんじゃないかと思うんです。
有名な『正法眼蔵』の中に、

 
   ただわが身をも心をも、はなちわすれて、
   仏のいへになげいれて、仏のかたより
   おこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、
   ちからをもいれず、こころをも、
   つひやさずして、生死をはなれ仏となる。
       (道元正法眼蔵」生死の巻より)

 
同じ味わいだ、と思うんですね。
「わが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて」
―水を汲み上げるのではなくて、私が水の中に浸らせて頂いて、そのお指図に従っているとき、こちらのはからいを用いる余地はまったくない。
すべてが向こうさまの働きによって、我が心をももちいず、力を入れる必要もなく、このままで生死をはなれ、仏となる。
どうしても何とかこういう境地になりたいと、水を汲み上げようとする努力がしたい。
それが結局、私のはからいになる。
結局、わがはからいを頼みにする「傲慢さ」と「愚かさ」から逃れられない私であるということでしょう。
私が若い頃、熱心に読みました『哲学以前』という書物をお書きになった出隆(いで、たかし)という方は、名高い方ですけども、水泳の神伝流の達人だったと聞いておりますが、その出隆先生が、

 
   水には、浮力がそなわっている。だから、
   心を無にして、身も心も水に預けると、
   おのずから浮かぶ。
   しかるに、水に溺れる人があるというのは
   どういうことであるか。
   溺れた人を考えてみると、案外、
   浅いところで溺れている。
   浮力に足をすくわれ、「しまった!」と
   あわててしまい、その「心の重み」で
   溺れているようである

 
という意味のものがあったことを思い出します。
道元禅師のお言葉と同じだなあと思って、有り難く読ませて頂いたことがあるんです。


真夜中、けたたましい電話のベルがなりました。
こんな夜中にどなただろう・・・と思って、飛んで出ましたら、
聞き覚えのない、若い男の人の声です。

 
「周り中のみんなが、裏切り、そむき、見放し、もう生きる気力を失いました。
今から首を吊ろうと思うのです。ちょっと気にかかることがありまして」
ということです。
「何が気にかかるんですか?」と申しましたら、
「『南無阿弥陀』と称えて首吊ったら、間違いなく、仏さまの国へ往けるんでしょうね」
というのです。私は、思わず、どなりつけました。
「ダメです! やめておきなさい! あなたのこしらえものの『南無阿弥陀仏』なんか屁のつっぱりにもなるものですか! 」と。
これは、意外!という雰囲気が電話器を伝わってきました。
「では、どうすればいいんですか?」


「どうすればいいかって! あんた、周り中のみんなが、裏切り、逆き、見放した、という。
周り中のみんなどころか、かんじんのあんた自身が、今、あんた自身を見放そうとしているじゃないか!
そのあんた自身さえも見放そうとするあんたを、尚見放すことができないで、つらいだろうが、どうかもういっぺん考え直して、
しっかり生きておくれと、ひたすらに叫んでいいらっしゃる方のお声が、あなたには聞こえんのか!」。


「どこにも、そんな声なんか・・・」


「何を言っているのか!あんた、いま、あなたは激しく、こちらまで響いてくるような音をたてて呼吸しているではないか。
その呼吸が、ホラ、今も、どうか考え直して生きておくれ!と叫んでいるではないか。
心臓が、辛かろうが、どうか考え直してくれ!とひたすら働いて励んでいるじゃないか。
これが本当の南無阿弥陀仏だ!
助けてくだされよ、というにあらず、助かってくれよ、という願いが南無阿弥陀仏なんだ。
これに出遇わないんだら、生きても、死んでも、あんたの人生は虚しいんだよ!」と申しましたら、


「何だか、大変な考え違いをしていたようです」

 
という言葉で電話が切れましたので、おそらく首つりは止めてくれた、と思うんですけど。
そんな自殺の相談なんかも随分まいりますが、みんな大きな願いに目覚めてくれればね。
どんな辛さも願いの中なんだ、ということが分かってくれますと有り難いわけです。

 
笠井:  なかなかそこまでの境地にいきませんけど、やはり人間、
とにかく生きなくちゃいけないというのが大前提。
それが生かされて頂いているんだ、という気持になられるかどうか?

 
東井:  これは、北陸のあるお寺が経営している幼稚園の保母さんが子どもの呟きを記録して下さったものがあるんですが、その中に五歳の男の子が、
 
     僕の舌 動け
     というたときは
     もう 動いた後や
     ぼくより先に
     ぼくの舌
     動かすのは何や

 
という呟きを記録していらっしゃるんです。
凄いですね。
五歳の子どもが、
「自分の生きているという存在の底に働いてくれているものがある」
ということを感じているんですね。
私は、それを二十五歳にもなってから、目覚めさせて貰ったわけですが、
ご縁のある子どもは―五歳の子どもが目覚めているんです。


最近、長崎県の高等学校長や長崎県の教育長もなった竹下哲先生という方があるんですが、その方が、『ほんとうの人間になること』という書物をお出しになりました。
大変心安くして頂いている方ですが、そのはしがきに、

 
犬や猫や牛や馬は、生まれたときから、犬は犬であり、猫は猫であり、牛は牛であり、馬は馬である。
ところが、人間は、人間の子として生まれただけでは、まだ「ほんとうの人間」とはいえない。
生物学的には「人間」であるが、「ほんとうの人間」になるためには、
もう一度「第二の誕生」を経なければならない。
しかるに、現代人の中には、その「第二の誕生」をすることなく、
「空しく」生涯を終わってしまう人が多いのは、まことに残念なことである。仏教は、そういう私たちに、「第二の誕生」をさせてくださるお教えである」

 
という意味のことをおっしゃっているんですが、なんか今、第一の誕生はやってみんな人間として騒いでいるわけですが、
世の中の豊かさということもあり、
第二の誕生を忘れて、仏の願い、仏の声を聞く、という第二の誕生。
これを取り逃がしている方が随分あるんじゃないでしょうかね。

 
笠井:  それにしましても、このご本のように、鈴木さん、それから死刑囚の方の本当に「浄土の一年生」というふうにおっしゃられるぐらいに悟りきる人間というのは、そういう力というのはあるわけですね、本来はね。

 
東井:  力はなくても、その目覚めさせずにはおかない、というひたすらな至心な願いがあり、至心の仏さまから私のへの働きかけ、廻向があるわけですね。
だから、「至心に廻向したまえり」―こちらがひたすら尽くして、仏さまの方に向かっていくのではなくて、仏さまの至心、仏さまのご廻向が、私のために既に成就されている。
その中の私だ、ということなんですね。

 
笠井:  それが東井さんの信仰心の極みと申し上げてもよろしいでしょうか。

 
東井:  そんなことはない。息子の今度の問題は考えてみると、大変な災難のように思われますけど、私が得難い勉強を息子がさせてくれたなぁ、というふうに思わずにはいられません。


笠井:  どうも本当に素晴らしいお話をありがとうございました。  
東井:  どうもありがとうございました。



仏の声を聞く 1
仏の声を聞く 2 


      平成二年十二月九日、NHK教育テレビ「こころの時代」より