因縁 仏教の根本にあるもの 1
先に書きました東井義雄先生の
「仏さまの願い」では、
北海道の鈴木章子さんの『癌告知のあとで』 〜「私の如是我聞」〜という本のことを話されています。
鈴木御夫妻とは交流があり、手紙のやり取りをなされていたのですね。
『癌告知のあとで』は私も当時から読んでいたのですが、
郁代が再発してからは、改めて何度も読ませていただきました。
今回はお兄様である小川一乗先生が、
妹、章子さんのお話をされています。
仏教講座で直接お聞きしたことがありますが、
小川一乗先生は因縁についてとてもわかりやすく話されます。
「仏教の根本にあるもの」より 1
大谷大学学長 小 川 一 乗(いちじょう)
ききて 金 光 寿 郎
金光: 今日は京都の大谷大学の学長室に小川一乗先生をお訪ねしております。「仏教の根本にあるもの」というテーマでいろいろお話をお伺い致したいと思いますが、現代人になかなか分かり難いところもある大きな問題でございますので、
小川先生の妹さんの章子(あやこ)さんが昭和六十三年に、満四十七歳で癌のために亡くなられた、癌になって亡くなられる前の心境の記録を発表されたものがございますので、
そこにある詩などを参考にしながら、仏教の根本にある問題をお話して頂きたいと思います。どうぞ宜しくお願い致します。
小川: よろしくお願い致します。
金光: 妹さんは確か発病と言いますか、告知を受けられて四年位でお亡くなりになっていらっしゃると思いますが、
小川: 確かそうです。
金光: その最初の頃の詩だと思うんですけれども、「癌」という題で、
「癌」
癌といわれて
死を連想しない人がいるだろうか
医学の進歩した現在
死と直面できる病いに
なかなか出合うことができない
いつ死んでも不思議でない
私がすっかり忘れて
うぬぼれていたら
ありがたいことに
癌という身をもって
うぬぼれを砕いてくれた
どうしようもない私をおもって・・・
(鈴木章子)
こういう詩なんですが、多分、この内容から想像しますと、告知を受けられて、そこで今までの生活を改めて振り返られた。
その時期のものではないかと思うんですが、最初に妹さんが癌になったということはこちらの京都の方でお聞きになったんですか。
小川: いいえ。田舎の方で、妹から電話がありまして、
「私、癌なのよ」という電話を受けまして、大変驚きました。
まあ、寺にいるものですから、妹も寺で育って、寺に嫁いでいるものですから、その時、確かはっきり記憶はしてはいませんけれども、
「人間はいつ命を終わるか分からない。
癌も一つのご縁であって、死の縁は無量なんだよ。
だから、特別なことではないんだ。
だから、あんまり癌だ、ということは他人(ひと)に言わないで、静かに引き受けていきなさい」
というようなことを言うた覚えがあるんです。
金光: 「おお、可哀想に」ということじゃなかったんですね。
小川: そうですね。あんまり「可哀想」という意識はなかったです。
金光: やっぱり、「癌」というと、じゃ、「死」という、そういう問題が、妹さんには当然頭におありだったでしょう。
小川: そうですね。「治るかも知れない」と、勿論、人間ですから期待は持つでしょうけれども、まあ大体、当時は、「癌」と聞けば治らない病気だ、と思います。
ですから、今、お読み頂いた「癌」という詩の中で、「いつ死んでも不思議でない」ということ、そのことを私たちは忘れて生きていますから。
金光: 仏教については日頃関心をもって読んでいても、なかなか我が身のこととしては受け取り難いところがあるわけですが、
「お寺にお生まれになって、お寺に縁付かれて」ということは、
ずうっと仏法を聞いていらっしゃるわけでしょうけれども、自分が、「もうこれで死ぬかも知れない」と思うと、また、そこから新しく「仏法の味わい直し」みたいなものが当然始まるわけでございましょうね。
小川: 当然そうだと思いますね。ですから、癌を、そういう
「自分のいのちへの見直しとする尊いご縁としていくか」、
最近よく言われるように、「癌と闘う」と言って、
「最後まで闘って生きようとするか」、
それはその人それぞれだ、と思います。
金光: ここにはやっぱり「ありがたいことに」という言葉が出ていますね。
小川: そうですね。ですから、ここには、「癌と闘う」という気持よりも、「癌になったお陰で今まで見えなかったものが見えてきた」という、「感謝」というか、癌に対して、敵対するんじゃなしに、
金光: 「一緒に」という感じがありますね。
小川: そうそう。そういうニューアンスがここにありますね。
金光: ただ、「仏教」と言いますと、俗には、そういうふうになるには、「因縁」というか、「縁があるからそうなるんだ」という受け取り方がありますね。
その場合に、「先祖に何かあったから」とか、一般にはそういう形で受け取ったり、或いは、「自分が昔何か良くないことをしたから、こうなったんではないか」と、その程度の原因と結果を考える方が割に多いんではないか、という気がするんですが、
本来の仏法の場合は、どういうことなんでございますか。
小川: そういう考え方は全く間違った考え方で、お釈迦様・釈尊が、「縁起」とか、「因縁」といったのは、そういうような意味ではございません。
釈尊の一番の弟子でありました舎利弗(しゃりほつ)という方がおられるんですけれど、「智慧第一」と言われまして、お釈迦様のお弟子さんのナンバーワンですね。
この舎利弗が釈尊の弟子になったきっかけというものが、仏典の中に記録されております。
有名な「法身偈(ほっしんげ)」という偈文でございまして、その偈文にこのように言われております。
諸々(もろもろ)の存在は
因縁から生じる。
如来は
それらの因縁を
説きたもうた。また
それらの止滅(しめつ)をも説かれた。
大沙門(だいしゃもん)はこのように
説くおかたである。
(「法身偈(ほっしんげ)」より)
こういうような偈文ですけれども、少し分かり易く説明致しますと、
「私たちは数限りないほどのいろんなご縁が、実は、私となって只今のこの瞬間がある」と。
それは決して、「過去の何かが原因となって、結果としての私がここにあるんだ、という意味ではない」のであって、
「現在のこの瞬間を見つめていったら、人間の智慧では計り知れないほどの無量無数と言っていいほどの条件が、今の私というものを形成しているのだ」と。
ですから、「その条件が変われば、どんどん人間は変化していきますし、その条件に〝死〟というご縁が加われば、死の縁無量で、命を終えていかなければならない」ということなんですね。
そういう意味がこの偈の意味だと思います。
もう少し譬えで分かり易くいうと、例えば、みなさん方はどうでしょうか。「親から子が生まれる」とか、「農夫が畑を耕す」とか、普通常識では、そうお考えですね。
金光: そうですね。「親がいて、子供が生まれる」と、
小川: 「これは変だ」と思いませんか。
金光: いや、「親がいなけりゃ子供が生まれないじゃないか」と普通考えるんではないかと思いますが。
小川: じゃ、「子供の生まれる前に親がいる」んでしょうか。
金光: ああ、成る程。「子供が生まれたから親になる」。
ああ、成る程。
小川: 同じように、農夫はどうでしょうか。「農夫がいて畑を耕す」。
金光: じゃ、「畑を耕さない農夫もいる」ということになりますね。
小川: 「いる」ということになります。
ところが、釈尊はそういうのは「農夫」と言わない。
「畑を耕すという行いの中で、初めて農夫という結果が得られる」。
金光: ああ、まず、そういう「事実がさき」にあって、
その関係を「子」と言い、「親」と言う。
小川: そうそう。だから、仏教では、「親から子が生まれるんなら、
逆に子供から親が生まれる」ということも成り立つわけです。
金光: その「縁」というのは、そういうことをいうんですか。
小川: そういうことなんです。
「関係性の中において、只今のこの私が、私たらしめられている。
人間として生まれ、命を終えていく」という因縁の中で、
「癌も一つの因縁」となる。
金光: そうすると、「親がなんとかしたから、この子がこうなった」というのは、全然見当違いなんですね。
小川: それは仏教の教えを、「全く誤解した迷信だ」と言っていいと思いますね。
金光: そうしますと、先ず、「行いが先にある」。
小川: そうです。
金光: 「子供が生まれた」から「親となる」。
「耕した」から「農夫となる」と。
だから、「人間がどうなるのか」というのは、「何をするかによって、どうなるか」という、そういうことになるわけですね。
小川: そうですね。例えば、誰かが罪を犯した時に、「罪に苦悩した人にとって罪」という意味をもつのであって、「苦悩していない人にとっては、罪とならない」という仏教の考え方ですね。
ところが法律の場合は、例えば、人を殺して、苦悩しても、しなくても、それ相応の刑法がありますね。
金光: それは当然そうですね。
小川: それは一つの社会の約束事として当然ですけれども、仏教の場合は、「苦悩した人間に対して、その苦悩の救済というのがある」のであって、「苦悩していない人を、仏教は救うわけにいきません」ので。
金光: そうしますと、非常に、「現実の行い」というのを、まずご覧になるということになると、「生まれが、どうだから」というようなことは、お釈迦様の目には、「生まれは問題ではない」ということになるわけですね。
小川: それが、どうしても、私たちは、
「過去の事柄が原因となって、現在がある」というか、科学的な発想をしますけれども、釈尊はそうじゃなしに、
「今ある身を見つめることによって、自分の過去を見ていく」という、逆なんですね。
私が申しましたように、「何故、そういうことを釈尊は言われたのか」と言いますと、今から釈尊がおられた二千五百年程前のインドにおいては、もう既にご承知のような「業報(ごうほう)による輪廻転生(りんねてんしょう)」、
金光: 「業(ごう)」というのは「行(おこな)い」という、本来はそうなんですね。
小川: 「行い」です。「過去世に行った行いの報いを受けてこの世に生まれる」「この世でどういう行いをしたかによって、それに見合った未来の世界が待っている」という、そういうのが、「業報による輪廻転生」という一つの宗教倫理なんです。
そのことによって、「人に善い行いを行わしめ、悪いことをさせない」という一つの宗教倫理の役割を果たしたわけです。
しかし、それが束縛となって、今度は、「生まれながらに、生き物を差別する」という。
「過去に悪いことをしたから、苦しい身分に生まれるんだ」
といったように、「生まれによる差別」ということが、その当時の常識となっていた社会状況の中で、釈尊という人は、多分、直感的に、
「いのちあるものは平等でなければならない」
「いのちは平等である」
という、一つの彼の直感だと思います。
これが彼の宗教的天才の一面だ、と思います。
そういうことをキチッと明確に、私たちにお教え下さるために、
「私たち、生きとし生けるものは数限りないほどの因縁によって、只今の生を受けている」と。
そういった場合には、「過去世の何かがあって、現在」じゃなしに、
「現在の生きている、という身の事実の上に、無数のご縁と喜んで頂いていく」という、そういういのちの世界をお説きになられた。
金光: これは「人間だけじゃない」わけですね。
小川: インドの場合は「全部です。人間だけが生きているわけじゃありません」から。「すべて生きとし生けるものは、たまたまの因縁の組み合わせによって、人間ともなり、ゴキブリともなる」と。
そういう意味では、「いのちはみんな平等なんだ」というのが仏教の基本にあります。
そのことを端的に、初期の経典の中でも、古い部分に含まれる、と言われている『スッパニパータ』の中に、釈尊は、次のように説いておられます。
生まれによってバラモンなのではない。
生まれによって非バラモンなのではない。
業(行為)によってバラモンなのである。
業によって非バラモンなのである。
業によって農夫なのである。
業によって職人なのである。
業によって商人なのである。
・・・・・
賢者たちはこのようにこの業を知る。
(彼らは)縁起を見る者であり、
業とその果報とを熟知している。
(『スッパニパータ』六五○ー六五三より)
これは大変有名な偈文でございまして、これは簡単に説明致しますと、
「生まれによって、高貴な人に生まれた」。
金光: 「バラモン」というのは、一番高貴な人ですね。
小川: 身分の高い人です。だから、「過去世にそれなりの善いことをしたから、高貴な、身分の高いバラモンに生まれた」。
それから、「過去世において、それ程善いことをしなかったので、バラモンとして生まれなかった」と、「そういうのではないんだ」と。
金光: 「ではない」と否定されているわけですね。
小川: 「否定」です。
ですから、完全に、「生まれによる差別を、基本からキチッと否定しているのが仏教だ」と、こう言っていいと思います。
それでは、釈尊にとって、「業とは何か」と言えば、「何を行うか。行為によって、その業の果報を得るのである」。
例えば、先程申しましたように、
「畑を耕すという行為によって、農夫という果報を得るのである」
ということですね。そういう「いのちのあり方に目覚めた人を縁起を見る者である」というわけですね。
「縁起ということにおいて、業と果報の関係が明らかになる」と。
ですから、私はいつも申し上げているのは、
「仏教は〝因〟から〝果〟を考えるのではなしに、
〝果〟という身の事実のうえに立って、自分の因を自覚的に捉えていく」
というのが、仏教の基本です。
くどいようですけれども、
「過去に何か悪い因があって、今不幸である」
「過去に何か善い因があって、今、幸福である」
というのではなしに、
「今、幸福だ」「今、不幸だ」という実感の中に、
「自覚的に自分の来し方を振り返る」というのが「縁起ということだろう」と。これが「仏教の基本だ」と思いますね。
金光: そうしますと、「業」というのは離れたことではなくて、
「今、何をするか」。そういうことなんですね。
小川: そうそう。
(つづく)
平成十二年六月十一日 「こころの時代」より
「私」は「縁」によって成り立っている
が、思い出されました。
全休さんの「宿業」とも重なりました。