不思議な目  仏教の根本にあるもの 3

夏はぎ



「仏教の根本にあるもの」より 3 
 
              大谷大学学長  小 川 一 乗
              ききて       金 光 寿 郎



金光:  日頃忙しい生活を送っていると、なかなかそういうところに目が行き届かないのではないか、と思いますが、
妹さんの詩に「目」という詩がありまして、これを拝見しますと、

 
     「目」 
     内に目をむければむけるほど
     外の世界が広がってくる
     不思議な目
                     (鈴木章子)

 
「内に目をむければむけるほど、外の世界が広がってくる」論理的に言うと、おかしな筈ですよね。
でも、「内に目をむければむけるほど、外の世界が広がってくる不思議な目」。これは人間の目じゃない。

 
小川:  私たちは、目というのは外でしょう。
「外に向かっている目」というのは、「見える範囲しか見えません」ね。
その目を、一旦、「内に向けたら見えないものも見えてくる」
「日頃気付かなかった事柄も、そういうことが見えてくる」
一つのきっかけが、やはりお釈迦様・釈尊の教えの基本にあって、それが、「生きとし生けるもののいのちは、すべて平等でなければならない」
という目を、釈尊がもったのは、外を見たからじゃないんです。
「自分のいのちを見つめたからこそ、そういう世界が広がってくる」んじゃないでしょうか。

 
金光:  これは現代の「科学的思考、考え方」と言いますか、
「科学的なものを判断する基準」というのは、
「自分が確かめられること、実証出来ることなら間違いないだろう」と。「それ以外はよう分からん」と。
一種の「不可知論」みたいなことになるのかも知れませんが、
しかし、仏教の仏さまの世界というのは、普通の人間の目で、
或いは、普通の意識で掴まえようと思っても、なかなか掴まえられない。
けれども、ここにあるように、
「自分の内に目を向けて、よくよく見ていると、何となくだんだん分かってくる」という、そういう世界なんでしょうか。

 
小川:  それも一面にあるし、もう一つは、「外に向かって、全部見れるんだ」と。今の人間は傲慢に思っていますから、そう思っている間はウンと見たらいいんです。
その内に見えないことが分かってきますから。
だから、徹底して、「全部自分は把握しているんだ」と思い込んで、それは完全な錯覚ですけれどね。
それは一回自分が錯覚であることに目覚めないと、内に目は向かえません。だから、私は、そういう人には、徹底的に、
「もし科学的にすべてが解明されるんなら、してご覧なさい」と。
そこで、「これはダメだ。限界があるなあ」と気が付いたら、
ちょっと立ち止まって、「内側を見て下さい」と。
そうすると、「今まで見えなかった広い世界が見えて来ますよ」と。
大体、そのように申しているんです。

 
金光:  しかし、外の世界を見るにしても、例えば、ノーベル賞を貰うような、優れた能力を持っている人は、それぞれの方面で新しいものをご覧になるでしょうけれども、我々凡人にはなかなか見えない。
或いは、宗教的な面でも、御祖師様方みたいに天才的な人は見えるだろうけれども、「自分には見えないんではないか」と。
何となく漠然と、「自分には見えない、出来ないんじゃないかなあ」という感じを忙しい生活をしていると、どことなく、そういうことを思っている。そういうひぐらしがあるんじゃないかと思いますが、
そんなことはないですか。

 
小川:  僕は逆に、例えば、科学者でノーベル賞を貰うような、ある意味で優れた知性を持っている人は、
「如何に科学には限界があり、どんなに不十分なものか、ということを熟知している」と思います。
私たちは知らないからこそ、それが百パーセントだ、と。
そう錯覚している面があるんじゃないでしょうか。

 
金光:  しかし、その辺の外を見る目がいくら掴まえられても、宇宙は広いし、その小さな世界でも無限の小ささまでありますし、
それで満足することは出来ないと思いますが、
お釈迦様の縁起の世界、縁の世界、
それによって自分の中を通して、それに気付くことが出来ると、
そこはやっぱりなんか掴まえられる世界があるんですか。

 
小川:  「掴まえられる」と言うと、ちょっと誤解が生ずるから「無い」といった方がいい、と思います。
科学的なものは、仏教から言うと、それは智慧じゃなしに、知識ですね。
いくら知識が増大して、増えても、人間は智慧を持たなければいけない。「智慧とは何か」と言ったら、
知識とは全然別なことなのであって、
そういう意味で、そういうものがある、と言ってもいいかも知れません。
それはほんとは簡単なことなんです。


「この私は生きているのではなかった。生かされていたんだなあ」という。


科学の力で追求しようとしている、あらゆるすべてのものが、
「今、私を生かさせてくれているんだなあ」という。
そういう世界に目を開かせて貰うと、
「人間の方からすべてのものを得ようとする、知識を得ようとするのではなしに、知識で得られないほどの多くのものが、今、私となっているんだ」
という、逆の世界が開けてくるんじゃないでしょうか。

 
金光:  成る程。先程は、「不思議な目」ということをおっしゃいましたけれども、「不思議な目」によって、「新しい見方」が出来た詩ではないか、と思うんですが、「変換」という詩も遺していらっしゃいますね。

 
     「変換」 
     死にむかって
     進んでいるのではない
     今をもらって生きているのだ
     今ゼロであって当然の私が
     今生きている
     ひき算から足し算の変換
     誰が教えてくれたのでしょう
     新しい生命
     嬉しくて踊っています
     〝いのち日々あらたなり〟
     うーんわかります
                     (鈴木章子)

 
小川:  僕もこの詩は好きなんです。
妹にはいろんな詩があります。
『癌告知のあとで』 という冊子の中で、あまり気にいらん詩もあるんですけれど、これは気に入っている一つなんです。
これは仏教の根本をキチッと押さえた詩であるから、
私は使わさせて貰っているんです。
妹は仏教をそんなに勉強したとは思いませんが、見事にこの中には、仏教の根本的なもの、今日のテーマそのものが根底にあります。
まず、説明させて貰いますと、
「死に向かって進んでいるのではない」。
これで大 体、私たちの常識は、一つ拳骨をガツン!と。

 
金光:  誰だって死なない人はいないから、「死に向かって進んでいる」と思いますね。

 
小川:  思いますよ。

 
金光:  そうでないんですか。

 
小川:  それは、「何故か」というと、私たちは、今、どうでしょうか。平均寿命八十ですか。

 
金光:  そうですね。八十前後ですね。

 
小川:  そうすると、大体、心の中では、「八十まで生きなければ損だ」という思いがあるでしょう。
そうすると、人生どうですか。六十になったら、あと二十年。
七十歳になったら、あと十年。七十九歳になったらもう一年しかない。
そういうのを、妹はこれを「引き算の人生」と。
八十からどんどん引いていくわけですね。
そういう人生を歩んでいると、私どもは思っているんですけれども、
それは基本的に違うんです。
次の「今をもらって生きている」これが仏教ですね。
「今、今、一瞬のご縁を頂いて、一瞬一瞬のいのちを今頂いておる」と。
これが「足し算」ですね。
「一瞬一瞬頂いている」んですから、「足し算の人生」ですね。

 
金光:  次々次々幾らでも足していけるわけですね。

 
小川:  僕はよく言うんですよ。これを引用して、
「引き算の人生は地獄行きの人生だ」
「足し算の人生は極楽行きだよ」と、冗談で言うんです。
しかも、この考え方を基本で押さえているのが、
次ぎの「今ゼロであって、当然の私」これが大事ですね。

 
金光:  これは、しかし、「ゼロ」とは思いませんし、しかもそれが、「ゼロであって当然」とは思えないですね。
ちゃんとこういうふうになっているわけですから。

 
小川:  僕は、ここが妹が凄いなあと思うところで、
これは、「どうして凄いか」と言いますと、先程來、
「無量無数と言っていい程の因縁が、私となって下さっている。その因縁を一つ一つ取り去っていったら、私という何かが残るのか」と。
仏教では、「何も残らない」と。
「何かが残る」というのであれば、これは仏教ではなくなります。

 
金光:  「無我」とか。

 
小川:  「私無し」。
「私を形成している無量無数と言っていい程の因縁を、全部取り払った状態をゼロ」と。
それを漢字で、「空(そら)」という字を書いて、「空(くう)」と表現しますね。そういう「空(くう)である」「ゼロである」のに、
「無量無数の因縁が、今、私をここにこうして吐く息、吸う息あらしめている」。 

金光:  そうすると、「当然の私が今生きている」という。
その通りだけれども、感じとしては「今、生かされているんだ」という。

 
小川:  そうです。だから、「今を貰って生きている」。

 
金光:  成る程。「貰っている」わけですね。

 
小川:  だから、「ゼロということはここにいる私がどっかへ消えちゃう」という、そんな話じゃなくて、「無いのに今こうしている」。
ですから、その後の「いま生きている」という。
この「今生きている」という短い言葉の中に、妹の喜びが弾けそうに出ているでしょう。
それが、「嬉しくて踊っています」という。
「新しい生命」というのは、「一瞬一瞬新しい生命」ですね。
私たちは、「何か明日も、明後日もあると思って生きています」けれども、「今」しかありません。
「今の一瞬一瞬の新しいいのち、嬉しくて踊っています」。
これが、「今、生きている」という短い言葉の中味ですね。
そういうことで、「変換」という詩は、
「仏教の根本から湧き出ている詩だ」
と言っていいだろうと思いますね。

 
金光:  だから、その後の、「いのち日々あらたなり」という、
昔からある言葉ですね。

 
小川:  そうです。
「日々是好日(ひびこれこうじつ)」と言いますからね。

 
金光:  それを思い出されて、
「ウンよく分かっている。私は分かります」と。

 
小川:  そうです。だから、これは普通、「日々あたらなり」という、「日々是好日」という言葉の意味を、もう少し深く押さえていますね。

 
金光:  その前の、
「ひき算から足し算の変換、誰が教えてくれたのでしょう」
これは別 に、小川一乗さんが教えてあげたわけでもないわけですね。

 
小川:  それはやっぱり「如来の働きだ」と、私は思いますね。
それで妹のことが全国に出ていますので、一言、兄としてちょっと辛辣かも知りませんけれども、付け加えておきたいのは、
『癌告知のあとで』を読まれた方が、
「先生の妹さんは特別な人だ。私たちはなかなかああいうふうにはなれません」ということをよく言うんです。
しかし、私から見ると、逆に、
「あの妹がこんな詩を・・・分からんもんだなあ」と。
「非常に個性の強くて、世界が自分中心に回っていないと満足しない」。
それは、「お寺の坊守だ。園長だ」と言って、
人々をリードしていかないと、納得できない、満足出来ないような妹だったんです。
しかし、癌になって、
「自分がいなければ幼稚園はやっていけないだろう。
自分がいなければお寺は困るだろう」
という思いが打ち砕かれたんですね。
そういうことが出来なくなった。


その時に、妹の偉いのは、
「ああ、そうか。坊守だ、園長だ、と、自分の力でやってきた。
私がいなければ、人々は困るだろう」と思って生きていたけれども、
「自分は全部や らさせて貰っていたんだ」と。
「いろんなご縁の中でたまたま坊守の役をさせて頂き、園長の役をさせて頂いただけのことだったんだなあ」と。
多分、そういうことに「気が付いた」というか、「目覚めた」というんでしょうか。
そういうことが あるんじゃないかなあと、私は思います。
ですから、「妹さんのようになれません」という他の人に対して、
「あんな妹が、よくなあ・・・」と、
大体逆に、こういうふうに言うのが、私の口癖なんです。

 
金光:  でも、今のおっしゃった、
「いろんなご縁で、私はそういう仕事をさせて貰って頂いたんだ」
と気付かれた世界というのは、これは広いですね。

 
小川:  やっぱり、坊守として寺に、また、寺に生まれた、という、本人が気付かないところで、
「ご縁が成熟していった」というんですか、「実を結んでいったんだろう」と思います。

                              (つづく)



仏教の根本にあるもの 1
仏教の根本にあるもの 2 



郁代の最期の言葉は
「これまで完璧だった。
必要なもの、必要なことが、いつも直ぐに用意されていたもの・・・」
でした。
どうしてそんなことが言えたのだろうと不思議でなりません。