大きないのちの世界 仏教の根本にあるもの 4

郁代はスキューバダイビングのライセンスを持っていて海が大好きでした。
亡くなってから六年目に、
オ−ストラリア、郁代の海をやっと訪ねることができました。
それまでは、辛くて行けませんでした。









「仏教の根本にあるもの」より 4 
 
              大谷大学学長  小 川 一 乗
              ききて       金 光 寿 郎


 
金光:  終末期の医療をなさっている先生方のお話を伺いますと、いろんな患者さんがいらっしゃるわけですけれども、
やっぱりエリートコースを歩んできた会社の部長さんなんかで、若手のバリバリのやり手の人なんかは、思いをほんとに残して、
「まだ、あれやりたい。まだ、あれが出来ない。これが出来ない」と言いながら、亡くなられる方もおありだというふうに伺います。
そういう意味では、「自分がいなきゃ」と思っていらっしゃった、その仕事が「出来なくなった」ところで、
「仏教の本来の見方で、見ることが出来るようになった」。
その表現が今までの詩という形になっている。
でも、なんか肩の力が抜けているような印象を受けますね。

 
小川:  かえって、どうでしょうか。
「私が、私が」と言って、「我を張って生きてきた人間だからこそ、逆に打ち破られて」という面もあるんじゃないでしょうか。
あんまり円満に生きてきた人は、なかなかそういうご縁が結べないかも知れませんね。

 
金光:  じゃ、もう一度読まして頂きます。

 
      「変換」 
     死にむかって
     進んでいるのではない
     今をもらって生きているのだ
     今ゼロであって当然の私が
     今生きている
     ひき算から足し算の変換
     誰が教えてくれたのでしょう
     新しい生命
     嬉しくて踊っています
     〝いのち日々あらたなり〟
     うーんわかります
           (鈴木章子)

 
「今を生きていく」。ご本人はそういう「今を生きる」姿勢で、
どこまででも生きていかれればいいんでしょうけれども、やっぱり現実には、お亡くなりになるわけですね。
それでやっぱり亡くなられると、「どこへ行ったんだろう」という。
今度は、「次の世はどうだろうか」と。
やっぱり人間として、「死んだら、どっかで誰か待ってくれるんではないだろうか」みたいな自然な感情としてあると思うんですが、
その辺の、「この世・現在」と、それから、「過去世」だとか、「未来」だとか、その辺との関係は、どういうふうに考えたら宜しいでしょうか。

 
小川:  その辺は、釈尊の仏教では極めて明確なんです。
その前に一言申しておきたいことは、
「人は必ず死にます。死ということがあるから、世界のいろんな宗教がある」のであって、「何のためにあるか」というと、
「安心して死を引き受けていける」と言うか、「安らかに死を迎えていける人生でありたい」というのが基本にあるわけです。
「死ということがなければ、宗教は必要がない」わけです。
ところが、現在どうでしょうか。
日本における批判がましいことを言うては失礼ですけども、
死をタブーにして、死のことは口にしない。
それは単に、「死は縁起が悪いから」ということで、口にしないだけじゃなしに、「死んでからのことは分からない」。
いわゆる科学的な実証主義ですね。
それは誰も死んだことを実証出来ませんから。
そういう「死んでみないと分からない」という話で、
「死のことには触れない」というのが、趨勢ではないかと思います。
しかし、「生きている人間が一番恐れているのはやっぱり死」じゃないでしょうか。
その「死の問題を誤魔化している」と、言葉が悪いけれども。現代の仏教は、そういう面があるんじゃないか、と思います。
しかし、釈尊は死ということは、明確にお説きになっておられます。
「どういうことか」というと、ご存じの仏教の旗印に「三法印(さんぼういん)」と申しまして、三つの旗印があります。


「諸行は無常である」
「諸法は無我である」
「涅槃は寂静(じゃくじょう)である」と。


そうすると、「涅槃(ねはん)」というのは、
「この世のいのちがすべて終わった世界」ですね。
それは「寂静である」と。
「静けさである」というのが基本にあるわけです。
そうすると、「何故そういうことが言えるのか」ということが、次の大事な問題なんです。
何故、釈尊は、「涅槃寂静ということを言われたか」と言うと、その当時のインドの社会では、最初に申しました「業報による輪廻転生」で、「いのちは生まれ変わり、死に変わり」をして、霊魂のようなものでしょうか、そういうものが、「永遠に続いて、人間は生まれ変わり、死に変わりするんだ」ということが説かれていた時代の中で、釈尊は、「違うんだ」と。


「この私はこの一瞬の私しか存在しない」
「昨日の私は居ません。明日の私もまだ居ません」。
「まだ居ないだけじゃなしに、居るか居ないかも分かりません。この一瞬の只今のいのちは数限りないほどの因縁によって形成されている」。
だから、「いのちを終える」ということは、「それらの因縁がすべて消滅して、綺麗に清らかになった世界である」と。
それが「涅槃寂静」という言葉で表現されているわけです。
そういう涅槃のあり方を、この世でキチッと頂いて、安心して、人生を生ききっていける。
そういうことでなければ、「人間としては完成した人間とは言えないと。

 
金光:  「この世」なんですね。

 
小川:  勿論、「この世で、明らかになる」こと。

 
金光:  「死んだらそうなれるんじゃないか」
というのとはまた違うんですね。
 

小川:  違います。それがちょっと難しい表現で言えば、仏教の基本的な教えである「生死即涅槃(しょうじそくねはん)」というのがございます。
これを少し分析的に言いますと、先の妹の詩にありました
「ゼロであって当然の私」というのが、「涅槃の世界」ですね。
それが、「いろんな因縁によって、ここにこうして私という存在として、生死を頂いている」。
だから、「生死」と「本来ゼロである私」とは、「一緒の世界」である。「二重重ね」とでも言いましょうか。
そういう「只今を生きている」んですね。
そういうのが「生死即涅槃」ということです。
これを見事に易しい言葉で表現して下さっている方に、妙好人のおひとりに浅原才市(あさはらさいち)という方がおられます。
お念仏を喜ばれた方を妙好人とこう言うんですけれども、私はこれをいつも使わさせて頂いております。その方のお言葉があります。
 

     才市や何処におる
     浄土貰うて娑婆におる
     これがよろこび
     なむあみだぶつ
                       (浅原才市)

 
これが「生死即涅槃」を分かり易く言って下さっていますね。
「浄土はもう涅槃の世界」です。
「ちゃんと涅槃という確かな世界を頂きながら、今、娑婆の縁によって、ここにこうしていのちを頂いております。
それが嬉しい。それが喜び、なむあみだぶつ」とこういうね。
「生死即涅槃」というと、ちょっと難しく聞こえますけども、こういうふうに言って頂くと分かり易く頂けるんじゃないかなあ、と思いますね。

 
金光:  その辺のところを、「浄土」という言葉を使ってはいないわけですけれども、お釈迦様の場合は、そういう「涅槃の世界」。
これは、要するに、「輪廻しなくてすむ世界」ということでございましょう。

 
小川:  お釈迦様が、「輪廻転生」ということが定着して、常識となっている社会の中で、「そういうことはあり得ないんだ」ということをお説きになったのが、「涅槃寂静」です。
ところが、この「涅槃寂静」という言葉を、また我々は誤解するんです。「死んだら終わりか」という。

 
金光:  静かになってものも言わぬ。
「成仏する」という変な言葉になっちゃって、

 
小川:  その基本が「誤りだ」ということは、「今ある」と思っているからです。
「今ゼロ」なんでしょう。
それが、「たまたまの因縁によって、只今という私があり得ている」わけでしょう。
「死んでからなくなる」んじゃないんです。
いま既に、この「私は」と言えるようなものは、何にもないのに、「無量無数と言っていいほどの因縁が、私を形成している」だけなんですね。

 
金光:  そうは言われても、やっぱり、「私はここにちゃんと」という感じを受けますけれども、

 
小川:  ここでも、「私のもの」といえる、何かありますか。
「みんな頂きもの」です。

 
金光:  それは頂きものです。

 
小川:  その時に、私たちはやっぱり「自我の世界」にいますから、「私が、私が」と言って生きていますので、
「この体は私のものだ。この智慧は、知識は私のものだ」。
そう思って生きていますけれども、
「みんな貰い物だったなあ」ということに、
「目覚めた時に、そういう世界が開けてくると、ゼロ発見が出来る」
んですよ。

 
金光:  でも、そうしますと、「今のゼロ発見が出来たのが、本当の智慧だ」ということで、そうじゃなくて、
「こうちゃんと体があるよ」と言っているのは
智慧がない」ということになるわけですね。

 
小川:  そうですよ。ハッキリそれは知識だけですね。

 
金光:  それは言葉として、釈尊は遺していらっしゃるんですか。

 
小川:  はい。これは同じように、当時のインドの「業報輪廻転生」という、いのちのあり方に対して、根本から、
「それは人間がいのちの真実を知らない無知から、無知によって作り上げられている幻想の世界なんだ」
ということを、ハッキリお釈迦様は言っております。

 
金光:  そうすると、死ということを、本来の仏教の場合は、
「死んだらどこへ行くか」みたいなことは、「考える必要がない次元で生きていらっしゃる」ということですか。

 
小川:  そうですね。
 

金光:  やっぱり、「ゼロの延長」ということになるわけですか。

 
小川:  そうなんです。「延長」と言ってもいいけれども、
もっと言えば、「元へ戻るだけ」です。
こんな人間としての、
「これだけの生涯を頂いた。良かったなあ」
と元へ戻ればいいのであってね。

 
金光:  それは釈尊の場合も、非常に分かり易い言葉で、当時の人を相手になさっているから、そういう言葉でおっしゃっているんですけれども、
それは日本まで伝わってきている仏教の御祖師さん方も、そういう表現をちゃんとなさっていらっしゃるわけですか。
「死んだら極楽浄土へ行くんだよ」みたいな、
例えば、親鸞聖人なんかは、そういうことはどういうふうにおっしゃっているんですか。

 
小川:  親鸞聖人の場合は、哲学者ではありません。
宗教家ですから、確かにいのちを終えれば、「なんか楽しい、いい理想の世界に行きたい」という願いをもって死ぬ、いのちを終えていく人がいっぱいいますね。
そういう人たちを、親鸞聖人は無視しなかったんですね。
ところが、「阿弥陀如来の浄土」というのは、
今言った「涅槃寂静」なんです。
ちょっと難しい言葉を使いますけども、
親鸞聖人は「必至滅度(ひっしめつど)」必ず滅度に到る。
これは、「必ず完全な涅槃にいく」という意味ですね。
しかし、人々はやはり「いいところへ行きたい」という、未来に幻想社会を創りあげる。
それを親鸞聖人は「方便化土(ほうべんけど)」と。
「仮りそめな手段としての世界なんだ」という形で表現されております。
どうしても、私たちは、
「将来、いのちを終えれば、なんか麗しい、美しい世界が待っている」
と思っていのちを終えますけれども、しかし厳しく言えば、
それは、「私たちの思い」であって、
基本的には、「涅槃は静けさなんだ」と。
「死に何の意味を持たしてはいけない」。
私たちは輪廻転生じゃありませんけども、死というものに、何らかの意味を持たせないと納得出来ない。
生きている自我ですね。
ですから、「死とは生まれ変わりの出発点である」とか、「誰かの役にたつ死でありたい」とか、脳死による臓器提供がありますね。
「どうせ死ぬんなら、人にお役に立ちたい」と。
そう言ったように、「自分の死というものに意味付けをして、やっと安心して、死んだらどっかいいところへ行ける」と、
そういう「意味付けを行う」ことによって、
「死を安心して迎えていく」というか、「納得していく」というのが、殆どの人じゃないでしょうか。
ですから、そういう自我の働きの中ではやむをえません。
しかし、「自我を超えた仏教の世界ではそうじゃないんだよ」と。


「死は静かな元の大きないのちの世界に帰らせて貰う」。
それが本当の親鸞聖人のお言葉で言えば、
「真実の浄土」「真実の報土(ほうど)」なんだよ、と。
それが基本だと思います。


例えば、科学の世界は、「人間の苦悩とか、苦痛とか、そういうものを全部切り取る手術をして、切り取ることによって、人間は楽になる」。
仏教は違います。
「苦悩を引き受けることによって、超えていける。
苦悩もいのちの一つである。
だから、苦しみや苦痛を切り捨てたり、そこから逃げるのではなしに、
それを引き受けた時にこそ、本当に超えて生きるいのちの真実があるんだ」というのが、仏教の基本ですから。

 
金光:  確かに、章子さんも「癌だ」というのを逃げないで、受け止められましたですね。そこから、
「新しい頂かれる世界が見えてきた」
というようなことかと思うんですが。

 
小川:  ほんとにそうですね。
癌という告知を受けて、いのちを終えていく人が、いろんないのちの終わり方があるけれども、折角のいのちを終えていくんだから、
もう少し「良かったなあ」「有り難う」と言った妹の方が、
どれだけ安らかに死を迎えることが出来たでしょうか。
ちょっとしたことで、勝ったり、負けたりする世界はあるけれども、
人間のいのちは最終的には、
「我がはからい、何の役にも立たなかったなあ」
ということを頂いた時に、その中で、「精一杯やっていく」と。

 
金光:  そこにはお釈迦様・釈尊の説かれた縁によって成り立っている自分というのも、
「ゼロである」とか、「空である」という言葉で言われたその辺のところが、我が身に頂けると、今、おっしゃったような世界が、
「そうかなあ」「成る程」「有り難うございました」ということで、
「納得出来る」ということでございましょうか。

 
小川:  そうして、一つだけ付け加えたいのは、今、いろんな宗教がありますね。
そして、「どれが迷信で、どれが本物か、偽物か」と言って盛んによく私も聞かれるんです。
「本物の宗教と偽物の宗教の見分け方を教えて下さい」とか、そういうふうに言うてくるんですけれども、信者がいる限り、その人にとっては全部真実ですね。
そうすると、「偽物は何か。本物は何か」と、ほんとは「その区別がない」んです。
ただ、私がいつも言っていることは、区別があるとすれば、
その教えに出合ったことによって、
「生きていることがドンドン嬉しく楽しくなっていく」。
これが「本物」である。
その教えに出合って、
「次第に暗くなっていく。騙されたとか金を取られたとか、ドンドン人生が暗くなっていく」ような宗教は、
それは「偽物」であると、そういうふうに言うていいんじゃないか、ということを申しているんです。
今日はたまたま章子の詩を出して頂きましたけれども、章子はだんだん明るくなったでしょう。
そこに、「癌というご縁を通して、自分のいのちの真実 に出合った」。
そこに本物の宗教を見ますね。

 
金光:  じゃ、今日のお話を伺いながら、やっぱり自分の体を通して、
そういう仏教の、非常に大事な教えをもう一度味わってみたいと思います。どうも有り難うございました。

 
小川:  大変勝手なことを申し上げまして。
                            (おわり)
             平成十二年六月十一日「こころの時代」より


仏教の根本にあるもの 1
仏教の根本にあるもの 2
仏教の根本にあるもの 3


勤勉努力の人、念仏者の義父が90歳で自宅で寝たきりになったとき、
私を呼んで言いました。
「ありがたいことがわかったがや」
「自分が“だちかん者や”(無力な者)とわかったことが、
ありがたいがや」
その時の顔は喜びに輝いていました。
「自分の力で生きていたのではない。ご縁によって生かされていた・・・」
と言ったのではないかと思いました。


郁代は
「生んでくれてありがとう」
と言い遺しました。


全休さんの〈聞其名号信心歓喜〉より、
   智慧という光があるから煩悩という影ができる。
   もし光がなければ影もないので、
   「罪悪深重の凡夫」という自覚(懺悔)も出てこないのてす。
が、有り難く頂けました。