「我に手のなし 南無阿弥陀仏」

               緑陰





「生きるものは 生かしめ給う
 死ぬものは 死なしめ給う
 我に手のなし 南無阿弥陀仏」           藤原正遠師の言葉


郁代が亡くなった8月を迎えると、
あの年の緊迫した1日1日が重なってきます。
交わした言葉がありありと思いだされてなりません。


・・・・・
八月七日 
「もう立てなくなった…。親孝行、できなかったね…」
「いくちゃんのおかげでシドニー楽しかったよ…」
郁代にかける言葉をなかなか見つけられなかった。
なにか言ったら、涙が出そうだった。
あの時、郁代はなんと言ってほしかったのだろうと今も思う。
「今までお母さんの子どもでいてくれたことが何よりの親孝行だよ」
そう返事ができなかったことを今でも悔やんでいる。
「子が親より先に逝く…」
そのことばかりに捉われ「親孝行だよ」と言ってあげることができなかった。


八月八日 
「おとうさん、おかあさんの子どもに生まれて、しあわせだったよ」
「おとうさん、おかあさんの子どもに生まれてくれて、ありがとう」
郁代の発する言葉のひとつ一つが、私には重く感じられた。
私は、なにも言えなかった。


「痛み止めの回数が増えてくると、副作用で人格が変わることがあるんだよ。そうなっても薬のせいだからごめんね」
と郁代は言っていた。
 そうなるかもしれない前に、お別れのお礼のあいさつをしているのだと思った。
「すべてに感謝します。すべてのこと、すべての人を許します」
という郁代の気持ちが伝わってきた。


この日も、シドニーから友人が来てくださった。
近くの友人には茶菓を、県外、海外からの友人には昼食の接待を郁代は私に頼んだ。
水も飲めない郁代の前に食事を用意するのは、たまらなく辛いことだったが、それは郁代のたった一つの願い事なのだった。
友人にしても、郁代の前では辛くてどうしても食べられなかったらしく、
この日ピラフを少し残された。
郁代は、「おかあさんが作る物は、量が多すぎるから…」と(友人をかばって)言った。


金沢駅まで、お見舞い客の送迎をするのは夫の役割だった。
初めて金沢へ来られる人たちのために『○○さん』のプラカードを掲げて、何度改札口に立ったことだろう。
郁代が望むことで、まだ親に出来ることがある―。
私たちは、このしあわせがもっともっと続くことを願っていた。


「身動きできない郁ちゃんは凛としていて、励まそうと訪れた私を逆に気遣っていた。私は自分の無力さにうちのめされた」
この日訪れた友人は、こんなメールを後で私に送ってくれた。
・・・・・
                      「あなたにあえてよかった」より



きょうのこの時が、
「我に手のなし 南無阿弥陀仏
だと郁代が教えてくれました。