「み運びのままに」 3

浄秀寺住職藤原正洋師より頂いた、祖父藤原鉄乗・書
「篤く三宝を敬え」(複製)  (聖徳太子十七条憲法より)

「み運びのままに」 2に続きます。


「み運びのままに」 
                   浄秀寺前住職  藤 原 正 遠
                   き  き  て   金 光 寿 郎




金光  こういう歌もございますね。
 
      
      いずれにも行くべき道の絶えたれば
         口割り給う南無阿弥陀仏

 
やっぱり、いずれにも行くべき道が絶えることもおありなんですか。

 
藤原  何時も絶え通しですわ。こっちは絶え通しなんです。
腹が減り通しなんです。
でもご飯が何時も。
お念仏に摂取されて、包まれているから、南無阿弥陀仏でご飯を頂くわけでしょう。
お念仏は心のご飯なんです。

 
金光  そういうことですか。絶え通しということが、仏のわざと知らされるところで、何時も行くべき道が自分には絶え通しであると。

 
藤原  そうそう、こちらは絶え通しであっても、”南無阿弥陀仏”と。
具体的に言えば、“南無阿弥陀仏”とお出ましになると、
そのままで歩かしてもらうわけです。
人様見ましても、あんなことと思っていても、南無阿弥陀仏と。
あの人には、あの人のわけがあるんだから。
それだから、我々は亀の鈍いを見て、とやかくこっちが言うてるので。
手を離して見れば、みんなそれぞれお与えの中に歩いているんです。

 
金光  亀は亀で、自分の速度で、

 
藤原  あれで如来の速度ですね。

 
金光  あれじゃ困るだろうというのは、こちらが思っているわけでね。

 
藤原  こちらがみんな思っているのです。
あれは怠けていると、こちらが思っているのでね。
あの人にして見れば、やっぱりもう間違いのない法則通りやっているわけですから。
泥棒さんでも、あれは法則で泥棒しているので、ご苦労さんですわ。
我々は善い悪いでものを見ていますけれども、
やっぱり先祖から泥棒せにゃあならんような、ご縁を頂いていらっしゃるから、ご苦労さんですわ。
やっぱり、国でも戦争せなならんような状態に今でもありますわね。
それで我に手のなしでね。
手のなしとまた放っているのではないですよ。
手がないというところに自然法爾の何か摂取されるような、
世界が“南無阿弥陀仏”と、こういうふうに、南無阿弥陀仏の内容ですね。
そんな生活のようですわ。
 

金光  今のお話で、戦争もせざるを得ない状況で戦争をするようになっているとおっしゃいますけれども。

 
藤原  して良いというのではないですよ。

 
金光  はい。

 
藤原  して悪いですよ。喧嘩は悪いですよ。
それでもやっぱり親子でも、喧嘩せねばならんような訳がありますわ。

 
金光  しかし、そこのところが本当に仏わざと解ると、

 
藤原  認められる。しかし、悪いのは悪いということも認められますよ。
しかし悪うてもやっぱり出ることは出ますわ。
まあ言えば命がそうですわ。
死にとうないというのが本当なんだけれども、しかし死が来ればもう至上命令ですね。
 

金光  そこのところに落ち着けると、そんなに戦争までして、何かするという、
ご本人は戦争までしなければいけないというようなところはあんまり問題にならないということにもなるわけでしょうね。

 
藤原  いや。問題になってもいいですよ。問題になりますよ。
戦争がない、家庭喧嘩がないようにと、みんなお互い仲良くしていこうと一生懸命にやっていますわ。それでも出ますわね。
それを良いとか悪いとかのところでは結論でませんわ。
南無阿弥陀仏”です。

 
金光  善悪、善い悪いとかいう、そこのところとは、もう一つ次元が異うところでのお話ということですね。
 

藤原  そうですね、次元の異ったところから言えば、泥棒なさるのもご苦労さんと言えますわ。
ご縁が私にあれば、私がやっているんですもの。
ご縁がないから、やっておらんので、あらゆることがそうですね。
日本が今戦争をするような境涯になっておらんからしておりませんけれども、境涯がある時は、今までやって来ましたわな。
そうすると、毎日の生活をみますと、そうですね。
個人個人の生活が、腹立てまいということで、一生懸命思っているけれども、先に立つわ。

 
金光  はいはい、そうですね。ところで、こういう歌がありますね。

 
     罪に泣く人らを待ちて下下(げげ)の国
       大悲(だいひ)の弥陀は待ち給うなり

 
例えば、腹立てた自分が、何故あんなことに腹を立てたのかと、つまらん自分だと。
例えば、思ったりします。そういう思っている自分をちゃんと、

 
藤原  思って苦悩するわけです。
苦悩のしまいにね、どこで落ち着くかと言うと、
下のちゃんと待っていらっしゃる親が、“南無阿弥陀仏”で。
「罪はいかほど深くとも我をたのめ」という、阿弥陀様の、南無阿弥陀仏はそういうことですわね。
「罪はいかほど深くとも、我をたのめ」
という阿弥陀様の懐に帰らせてもらうのが、南無阿弥陀仏ですから。

 
金光  そこのところで、

 
     たのめとは 助かる縁のなき身ぞと
       おしえて救う弥陀のよび声

 
というお歌がございますね。

 
藤原  たのむと言うのは、助けて下さいと頼む。
そういうのもありますわね。それが多いですけれども。
本来は阿弥陀様のたのめというのは、
助かる縁のないぞという、お前の自由はきかんぞ、という、
お前の願いを認めてやるぞというんじゃないんですね。


たのめとは、たすかる縁のない身だと教えて、
こっちはもうどうにもならん、
その下に、阿弥陀様のそのまま来いのよび声に会うわけですから。

 
金光  助かるというのは、上の方に上がっていくんじゃないわけですか。
 
藤原  そうそう。阿弥陀様は下においでるから。
摂取して下さるから、抱いて下さるので、負けたまんま、抱いて下さる。

 
金光  では、落っこちるところで、受け止めて下さるということですか。
 

藤原  そうそう。それで有り難いですわ。
上がって行くのは、限界がありますけれども、落ちていく下は、もう限界ないですから。
たのめとは、お前にはもう助かる縁がない身ぞと教えて、救うというのが、
助かる縁がないのに救うというのは、その救いではないですね。


「助かる縁のなき身ぞ」と、教えて、
下でお待ちになっているから、教えて救う。


弥陀の呼び声ですから。
阿弥陀様の救いは下なんですね。
この歌は私の歌でない。誰かの歌だと思いますよ。

 
金光  ああ、そうですか。その落ちていくところというのは、これはもう自分で飛び込もうというんじゃまだダメなんですね。

 
藤原  一遍、お念仏した人は、親に抱かれたんだから、必ずそこに帰っていくんです。
お念仏のない人は帰ってこれないですわ。
 

金光  では兎に角、お念仏口で称えれば、それでいいんだと。

 
藤原  そうそう。一声称えておくと間に合いますわ。

 
金光  何も他に条件はなくて。

 
藤原  そうです。佐々真利子さんという、あの人が小児マヒで、そして脊椎カリエスで長い間寝ていらっしゃったんですね。
そして、「お念仏出ますか」と言うたら、「出ません」とおっしゃるから、
「出ます」とおっしゃれば、そのまま私は「結構ですね」と言うけど、
「出ません」とおっしゃるなら、「練習しましょう」と、練習するんですわ。
後で聞くと「おかしかった」と言うんですよ。
それでも小児マヒでそれから脊椎カリエスで、何を思っておったかと言うと、
「何で死なんか、何で死なんか」とばっかり思っておったというのです。

 
金光  こういう身体で生きていても、しょうがないと。

 
藤原  今では「死にとうない、死にとうない」ですって。
それだから、今は身体のそういうことには問題ないんですね。
その世界にも満足して、
後は生きたいという、人間本来のものになってあるのでね。

 
金光  歩けるようにおなりになったわけではなくて、歩けないままで。

 
藤原  「これが私だけに与えられた仏様の身体」
というところに腹が決まったんでしょう。
そうなったら、もう、そこから解放されてますわな。
別に達者な人とか、達者でないとか、もう比較病とれていますから。

 
金光  私達の苦しみの元には、人と比較するという、一種の病気とおっしゃるそのことが大きな原因になっているわけでございますか。

 
藤原  そうでございますね。
もう一つ言うと、あらゆることが比較病ですわ。
金があるとか、ないとか、頭がいいとか、悪いとか、比較病で苦しんでいるのでね。
自分が仏に摂取される。
「この身、このままが仏から貰った」
ということになれば、比較病は取れますわ。
どこにでも、お与えの所におれる身になるわけですね。

 
金光  そこのところで、こういう歌がありますね。

 
     そのままをこちらで聞けば自力なり
       まかせまつればまことそのまま

 
そのままという言葉を、比較しないで、じゃこのままでいいんだと。

 
藤原  そういうことを、いいんだと言うのも、やっぱりね。
その身になったらもう忘れていますわな。  
金光  はあ、そこのところですね。    

 
藤原  先生がここに来ようと思っていらっしゃっている時は、ここでないわな。
今、ここにおるということを意識なさっていませんね。
まあ調べれば、ここにいらっしゃる。
いらっしゃるまでは、むこうにあったけれども、来てしまえば、もうここにいらっしゃることは忘れていますわ。
我々の性格も、比較しておる。
外に見てるとなんやけれども、自分に返れば、『天上天下唯我独尊』ですわ。
独尊て、人と比べての独尊じゃないですね。
本当に有り難いなあ、自分というところで満足出来ますから。

 
金光  そこのところが、永遠の命の中の自分の命であると。

 
藤原  そういうことと、一致するわけですね。

 
金光  前に、佐々さんにも、出て頂きましたが。
ずうっと前に一度、先生にも出て頂いたことがあるんですが、この前の時に、
 
     百花(ひゃっか)みな香りあるごと人の世の
       人の仕草(しぐさ)のみな香りあり
 
という。
この百花みな香りあることということで、伺ったんですが、
「百花みな香りあるごと 人の世の 人の仕草の みな香りあり」
これが比較病を離れたところでのお歌ということでございますね。

 
藤原  まあ、後で言えば、そうなるわけでしょう。
歌を作る時、そんなことは考えない。
「人の仕草のみな香りあり」
みんな香りあるとなると、みな香りありますわね。

 
金光  ただ、良い香りもあれば、あまり嫌だなあという香りも、やっぱりあるわけですが。

 
藤原  嫌な香りもあるけど、みんなそのまま、いい香りですよ。

 
金光  いい悪い、先程、おっしゃっていました、善い悪いという目で見ると、確かに善い悪いだけれども、もう一つ、離れてみると、全部いい香りであると。

 
藤原  そうそう。あるいはご苦労様と言いたい香りですね。

 
金光    不可思議と思うは思議なり自力なり
          まかせまつればまこと不可思議

 
という歌がありますね。
この不可思議と、確かに考えてみますと、この世に生まれて来て、朝が来て、夜が来て、草が生えて、鳥が飛んで、木が茂って、花が咲いて、不可思議というようなことは考えられるんですけれども、
不可思議だなあと思っているのは、それはまだ自力なんですか。

 
藤原  いや、まあね、それも他力なんだけれども、取り立てて言えば、言葉を越えて、本当に不思議だなあ、というね。

 
金光  お話を聞いて、ああ、成る程、確かにこの世の中というのは、不可思議だなあというふうに、思っている程度の味わいと、
全くもっと異いますよという感じでございましょうか。

 
藤原  そうですね。例えば、今、便所のところにコスモスの花の赤いのをじっと見て来ましたけれども、あの赤がね。
どうしてこんな綺麗な赤が出るんだろうとね。
別に言葉に出さんでも、ほんとに不可思議ですね。
あんな赤い色が、どうして出るやろうと。
まあ、そんなことから言うと、こんどは自分にもこんな手がちゃんとあって、ほんとに不可思議なんですね。
言葉で言うても良いんですけれども、不可思議だなと、ほんとに不可思議なんですね。
 

金光  ほんとにそうですね。指がちゃんとあって、握ることも出来れば、爪があって。

 
藤原  そうすると不可思議という言葉以上に、
本当に不可思議と、そんなことの意味でしょうね。
                          (つづく)
             (平成八年十一月十日「こころの時代」より)
    


郁代が亡くなって、
     “いずれにも行くべき道の絶えたれば”の私でした。

・・・・・
「助かる縁のなき身ぞ」と、教えて、
下でお待ちになっているから、教えて救う。


弥陀の呼び声ですから。
阿弥陀様の救いは下なんですね。
・・・・・

有難うございました。