「み運びのままに」 4


「み運びのままに」3 に続きます。           


「み運びのままに」] 
                   浄秀寺前住職  藤 原 正 遠
                   き  き  て   金 光 寿 郎



金光  そこのところから見ますと、人間だけではなくて、今、花の話もおっしゃいましたが、

 
     山も川も鳥もけものも法の邦(くに)
       一如に見えて心ほのぼの

 
藤原  そうですね。何か大きなもうね、永遠のお命が生き生きとね、
草の命も、私の命も、仏様と申しますか、永遠の仏様の活動体ですね。
活動体という言葉になると、固くなりますけれども、ほんとに不可思議なんですね。
そうなりますと、自分の身体に目があって、鼻があって、空気があって、食べたものを消化して、いらんものを排泄するし、完全無欠ですね。
しかも不思議ですね。
こんな皮一枚でちゃんと生きさせて貰っていますわね。

 
金光  そうですね。考えてみれば、先程、コスモスの花のことをおっしゃいましたけれども、桜の木には桜の花が咲いて、
梅の木には梅の花が咲くというのも、
これ不思議と言えばほんとに不思議ですね。

 
藤原  そういう全く不思議ですね、そうするとここがお浄土ですわ。

 
金光  別のところにわざわざ作らなくて、

 
藤原  そうそう。死んだら、お浄土ということは、そういう世界を知らされたことが、前の私中心の世界が死んだら、今ここはお浄土ですわ。

 
金光  前に極楽という言葉と一緒に、慾楽という言葉を使っていらっしゃったですね。普通は極楽というのは、慾楽、欲の楽しみが満たされるところを極楽と言っていることを、慾楽という言葉で表現されているんだと思ったんですが。
 

藤原  普通、慾楽で生きていますわね。
勝ったとか、負けたとか、儲かったとか、損したとか、みんなこれは慾楽だけど、極楽の中にそれも入っているけれども、次元が異うのです。
しかし、極楽を遠いところに見ておりましたけれども、
今が極楽ですと、先のことを言わんでもいいですね。
今が極楽なら、今日までも極楽だったんだから、死んで先も極楽ですわ。
魂があっても、無くても極楽です。
極楽ということは大法のお運びのままに、素晴らしく、すがしく、そういう世界なんですね。
そうなると、私も九十二になりましたけど、死が近いと思うほど、楽しんで行こうと思ってね。
先ず、腹を立てんようにしたほうが楽やから、
白いものを黒いと言われても、「はい、はい」と、そういう気でおりますから楽ですわ。

 
金光  今、日本では極楽という言葉をあまり聞かなくなって、天国という言葉がよく聞かれるようですけれども、
 

     天国に生るることをあきらめし
       我は下国(げこく)に安らけくあり

 
というお歌があるんですが、
別に天国に生まれなくても、今ここが極楽であれば。

 
藤原  天国ってまだ不足の人が言うとるわけですね。
今が不足の人が言うてるので、
今が満足の人は向こうに手を出しませんもの。
今が満足ということは、過去も満足。満足であったんですね。
不平言うて来ておったけど、よく考えてみると、私だけに与えられたところを歩いて来ておったんです。未来もね。
それから死ぬということも、如来様の仰せだからな、
そうなると、死ぬということも越えたわけですね。
まあ、それも南無阿弥陀仏というお言葉のお陰でしょう。
南無阿弥陀仏”という上でそういう心境が出て来たんで、
ただその心境だけを掴んではいかんわけですね。成れんもん。

 
金光  そこのところを、

 
     分別が分別をして出離(しゅつり)なし
       無分別智の弥陀のよび声

 
というお歌がありますが、そこで、そうだと聞くと、直ぐああ、そうかと分別で掴みたいんですけれども、
その分別で掴んでいる間は、どこまで行っても分別だと。
 

藤原  また分別です。
南無阿弥陀仏はそれだから分別をとってもう、
大地と自分と一枚になった世界が、南無阿弥陀仏というわけで。
いろんなことがありましても、またそこで行き詰まり、
また、”南無阿弥陀仏”となると、そのままが自然法爾のね。
ですから、お念仏というものは大した薬ですわ。
どんなものが出て来ても、また”南無阿弥陀仏”と歩かせてもらうように、
二十歳くらいから、今日まで歩かせて貰っていますよ。

 
金光  そこのところは、分別心ではダメだということが、気付かせてもらったところに、無分別の世界が見える。

 
藤原  いや、気付いた私がおるからなあ。

 
金光  はあまだ。合点などいらない。必要のない。

 
藤原  要らないのでなくて、やっぱり私から言えば、お念仏の、

 
金光  もう理屈でどうこうと言わなくても、お念仏だけと。

 
藤原  それだから親鸞聖人は、やっぱり、「ただ念仏して」と。
法然上人もおっしゃったと。


歎異抄』第二章で、
親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」


そういう世界に早う、お生まれなさいと言われた。
それが『歎異抄』第二章ですね。

 
金光  そこの信じるということで、面白いことをおっしゃってるんですが、本当に信ずるということは、信じる必要がないことだということをおっしゃって。
前におっしゃったことでですね、自分が、

 
藤原  信じた人には、

 
金光  成る程。男であるなんということを、信じる必要がないということを、

 
藤原  もう信じた人にないのでね。
男ということを、先に知っているから、言う必要がないのです。
信心というものも、そうだから、貰うたとか、貰わないとか言うてるのは、貰ろうた人は、信心と自分とが一つになっているから、意識しませんわ。
どうして、そんなら、証明するかと言うと、前にいろいろ捜しておったけれども、今、捜していないというのが、証明ですね。

 
金光  はい。捜す必要がない。そこに、

 
藤原  もう、おさまってるからね。何にもさがしていません。
(つづく)


           (平成八年十一月十日に、「こころの時代」より)