愚者になりて

雪の消えたキャベツ畑が新鮮に見えました。
とても暖かい日になりました。




全休さんの仏教ブログ
「愚者になりて往生す」を読み、
念仏の人だった義父が90歳で亡くなる少し前に、
私を呼んで言った言葉が思い出されました。


「ありがたいことがわかったがや」


「自分がだちかん者(愚者)やとわかった。
そのことがありがたいがや」


            「あなたにあえてよかった」より




「愚者になりて往生す」には、このように書かれていました。



  故法然聖人は、「浄土宗の人は愚者になりて往生す」と候いしことを、
  たしかにうけたまわり候いしうえに、
  ものもおぼえぬあさましき人々のまいりたるを御覧じては、
  往生必定すべしとてえ(笑)ませたまいしをみまいらせ候ひき。

  
  ふみざた(文沙汰)して、さかさかしきひとのまいりたるをば、
  往生はいかがあらんずらんと、たしかにうけたまわりき。 
                                    (末燈鈔 6)



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親鸞八十八歳のときの手紙です。
世間というところは、だますよりだまされるほうが悪いと教えるところで、知恵のない者は知恵のある者にだまされて、
知恵のない者はだまされているということすらも知らずに生きている。
だから、人はみな、分別をめぐらして、だまされないように、
馬鹿にされないように、損をしないようにと、
それこそ賢げな顔をして生きている。

 
  他力真実のむねをあかせるもろもろの聖教は、
  本願を信じ、念仏をもうさば仏になる。
  そのほか、なにの学問かは往生の要なるべきや。
                                (歎異抄・第12章)

 
と同じ趣旨のことが、歎異抄にも唯円の言葉として記録されています。


「念仏をもうさば仏になる」、これだけが真宗のすべてです。


如来より回向された信心の智慧(という鏡)に照らされて出てくる念仏です。   
自分の心を観察する“内観”を深めていけば智慧が生じます。
生じた智慧に育てられて(自然法爾に)仏になるのです。
これが念仏往生の道です。