永遠(とわ)のいのちの中をながるる

郁代を想うといつも藤原正遠師の言葉が届きます。

「生きるものは 生かしめ給う
 死ぬものは 死なしめ給う
 我に手のなし 南無阿弥陀仏」 

住職、藤原正洋師の法話を毎年お聞きしていて、
「一度お寺へもいらしてください」とお誘い頂いていたのですが、
縁あってやっと訪ねることができました。

私の家からも近い川北町浄秀寺

境内にある前住職正遠師の句碑が迎えてくださいました。

    〜あや雲のながるる如くわがいのち
       永遠(とわ)のいのちの中をながるる〜

藤原正遠師「こころの時代」〜み運びのままに〜」では、
最初にこの句について話されていますね。
改めて読ませていただきました。

・・・・・
「み運びのままに」  
                   浄秀寺前住職  藤 原 正 遠
                   き  き  て  金 光 寿 郎  

金光  今、こちらへお邪魔する時に、本堂の前にある碑を拝見しますと、
 
     あや雲のながるる如くわがいのち
       永遠(とわ)のいのちの中をながるる
 
という、お歌が碑になっていましたですね。
ここに色紙にも書いて頂いているんですが、
「あや雲の ながるる如く わがいのち 
永遠のいのちの中をながるる」
という、お歌でございますが、
これはどういうお気持ちでお作りになった歌でございましょうか。
 
藤原  「あや雲のながるる如くわがいのち」
「あや雲のながるる如く」というのは歌の修飾語ですね。
言いたいのは、その後です。
私の命は、わがいのちでしょう。
「永遠のいのちの中をながるる」と
言うんで、単なる五十年の命でなくて、永遠普遍のお命の中に流れている、永遠の命の、流れているという、何かそういうことを感じて出来たんでしょう。

金光  普通は、オギャと生まれて、それで五十なり、百年なりで死にますね。それで命終わったというふうに考えるのが普通ですが、
この歌は五十年や百年で終わる命ではないということでございますね。  

藤原  そう、それからもう一つ言うと、五十年、百年で、いつも不安でしたけれども、背後に「永遠(とわ)の、永遠(えいえん)のお命の中の私だ」ということが気付かされて、私自身はなんか落ち着いたようですね。
何時かは覚えませんけれども。
やっぱり四十頃まで、生死問題で苦悩しましたけれども。
この頃、苦悩しないのは、どこで落ち着いたかと言うと、その歌の「永遠(とわ)の命の中を流がるる」という心境になったら、落ち着いたようですね。
今までは、命というものに、非常に脅迫されて来ましたけれども、その歌の出来た頃、なんか落ち着いたんでしょう。
何故なら、私は永遠のお命の現れだと。
今までは、私の命だと有限に考えていたけれども、そういう背景が感じられてから、なんか落ち着いたようですね。
今もう九十二になりますけれども、なんか落ち着いていますわ。
 
金光  そうすると、たしか同じ様なところで歌われた歌かと思うんですが
 
     一息が永遠(とわ)のいのちと知らされて
        すべてのものが輝きて見ゆ 

やっぱりその一息一息で終わりじゃなくて、その一息が今おっしゃった、 

藤原  即ですね。  

金光  即、永遠(とわ)の命ですね。 

藤原  そうですね。永遠(とわ)の命。 

金光  そうしますと、あんまり何年生きたからというようなこと、たしかに、それはそれとして、それが永遠(とわ)の命と地続きであるということですね。

藤原  そうそう。永遠(とわ)の命の一分子がここにおるんですけども、背景は永遠(とわ)の命なんです。もう一つは永遠(とわ)の命の現れがここにおるわけなんです。
 
金光  と言って、永遠(とわ)の命だから、自分がこれから将来どうなるとか、あんまりそういう将来の計画たてて、こうこうしなければいけないとか、この世が終わったらどうなるとか、あんまりそういうこととは繋がらないんでございますか。
 
藤原  そういうことは考えませんね。
永遠(とわ)の命というところに腹が据わったんでしょうかね。
今死ぬという問題も、気になっていませんね。
昔は気になってね。
家によく遊びに来ておった兄の長女の友人で、田代園子というのが、九つで急に亡くなったんですよ。
私が十九だったか、十八だったかね。
それから私が不安になったんです。
死に脅迫されるようになったのです。
 
金光  自分も何時死ぬかわからないと。 

藤原  そうそう。あの子によって死の脅迫を受けて。
丁度、あれは中学出て、一年浪人している頃です。
それで普通の旧制の高等学校に入る予定でありましたけれども、
あの子が死んだら、勉強出来なくなりましてね。
 
金光  勉強よりも、そちらの死ということが。 

藤原  それで毎日お墓に行った。
まあ、あの頃純情だったんでしょう。
何かお供えを持って行って上げて。
横に高い木がありまして、その下に草があって、そこに半日位横になって、そしてお供えみんな食べて帰って来た。
あの子の死んだことで、
大谷大学という、南無阿弥陀仏の学校に入ったのです。 

金光  やっぱりその問題を解決するのには、この学校、こちらの方に行ったら、何か問題解決出来るんではないかと。  

藤原  そういう意識があったんでしょうね。
中学時代に大谷大学学生募集という、ビラがありました。
それが他のビラよりとても良くて、そういうことで大谷大学を覚えておったんです。
ご縁てそんなもんですね。
あの子が死んだら、パッと大谷大学が出てきて、
それで大谷大学にご縁があったのです。
私の家は寺でございませんから、ぜんぜんそういうものがなかったんです。        あの子の死によって、脅迫されて、それでまた、学生募集のビラで、そんなご縁で大谷大学に入ったんです。
 
金光  それで死の脅迫されていた問題は、即解決出来たというわけでもございませんでしょう。
 
藤原  大谷大学に六年おる間に、お念仏がお出ましになるようになったんです。
それですから、解決出来んでも、”南無阿弥陀仏”でおさまるようになったんですね。
 
金光  ああ、そうですか。
 
藤原  毎日人の死や、また自分の病気とか、戦争とか、いろんなことがありますと脅迫されます。
それでも、”南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏”とお出ましになると、おさまればいいんですから、おさまりますよ。
それから何十年も経ちます。
今、九十二になりますからね。
それから、ずうっといろんなことがあっても、お念仏がお出ましになると、一件落着しますわ。
             (平成八年十一月十日「こころの時代」より)
・・・・・
                           
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