この「イガ」があればこそ

昨日の記事、
「心を弘誓の仏地に樹て、情を難思の法海に流す」に、
まりんかさんがコメントをくださいました。


「何度も読みましたが、難しいです。
心を仏法の大地にしっかりたてる…とは。
仏に対しての揺るぎない信仰心をもつ…ことなのでしょうか?」


私にもよくわかりませんが、
仏さまの眼(まなこ)を戴かれて、ご自分の“身の事実”にうなずかれた方に出遇っていけばいいのかなあと思っています。



雪の中に一輪




浄秀寺さんを訪れたとき、坊守の藤原千佳子さんから
ご本人が書かれた「慈光はるかにⅡ」を頂きました。
その中の一節を紹介したいと思います。



『このイガがあればこそ』


先般、ある方から一枚の絵手紙を頂いた。
葉書大のその空間に、つやつやの栗の実が抱き合わせに描いてあり、
その茶色の栗の回りをとげとげの青い毬(いが)が囲んでいる絵です。
絵の傍に言葉が添えてありました。


   この「イガ」があればこそ
                南無阿弥陀


とげとげのイガを私たちは嫌います。
栗の実の方に思いが向きます。
この方は、このイガを(ありがたく)いただいておられるのです。
「イガ」、
それはこの方にとって単なる「イガ」でなく、
自分の人生と照合しておられるのでしょう。


「イガ」は「障り」(さわり)なのです。
又苦悩や煩悩を表しているのです。
苦労の多かったその方の歩んでこられた道程を想う時、
その障りや苦悩を通して、仏法に出会われ、
南無阿弥陀佛の大悲の喚びかけの中に安んじてその身の事実を生きてこられ、
「このイガがあればこそ」
とご自身の人生をいただかれたことに、深いうなずきを覚えるのです。


親鸞聖人の『高僧和讃』に次の一首があります。


   「罪障功徳の体(本体の意)となる
    こおりとみずのごとくにて
    こおりおおきにみずおおし
    さわりおおきに徳おおし」
                 (曇鸞讃 第20首、聖典493頁)


私たちは現実の生活の中で幸せを求めます。
しかし私たちの求める幸せの方向には、どこまでいっても満足するせかいは開けてきません。
本当の意味の救いがないのです。
そんな中で思いもかけない「苦」の事実に遇います。
日ごろの信心は吹っ飛んでしまうのです。


親鸞聖人は、罪や障りが仏さまの功徳の本体となると言われています。


以前、その方にお会いしました。
明るい生き生きとしたいいお顔をしておられました。
そのお顔からはとても多くの苦悩に出遇われてきた人とは思えない印象を受けました。
この「いのちの輝き」はどこからくるのでしょう。


「朝、目が覚めると、あら、ゆうべのうちに死なないで、
今日また、生まれてはじめての一日を賜りました。
ありがとうございます。
尊いかけがえのない一日です。
だから選択(えらび)の一日です。
自分の「いのちの願い」に耳を傾けて、私のいのちが悦ぶ方を選ぶのです」と。


親鸞聖人は、「悦」という字に「たましいがよろこぶ」と左かなをしてくださっています。