松井選手 引退

スポーツ音痴の私が、以前郷土の松井秀喜選手のことを書こうと思った日に、
地元新聞“地鳴り”欄に、こんな投稿が載っていました。
松井選手を応援する、ふるさとの人々の熱い想いを代弁するものでした。

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〜人々勇気づける松井選手のすがた〜
私は特別、野球フアンでも何でもありませんが、郷土の松井秀喜選手の姿には常日頃、感心させられ、学ぶものが多くあります。
大リーグという大きな世界の中で一人、頑張っている松井選手の姿には胸を打たれるものがあります。
長い低迷期間を乗り越え、大リーグで放ったホームラン。
そのニュースを目にした時、思わず感動で涙が出ました。
今までの松井選手の生きざまを見て、胸が震える思いでした。
この松井選手の姿がどれだけ多くの人々を勇気づけたことでしょう。
これからも松井選手を陰ながら応援させていただきます。
松井選手、
この感動、ありがとう!   金沢市主婦
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20年くらい前の甲子園、忘れられない対明徳義塾戦、
あれからずっと一線で頑張って来た松井秀喜選手が、
とうとう引退してしまいました。
本当に残念で寂しい限りです。


松井秀喜選手、これまで多くの人に勇気と励ましを与えてくださって
有難うございました。お疲れ様でした。
地元紙には、「来春、第一子誕生」とも書かれていました。


テレビニュースより           


今朝のnikkansports.com  (2012年12月28日8時42分)から


松井秀喜外野手(38)が27日(日本時間28日午前7時)、
ニューヨーク市内のホテルで記者会見し、現役引退を表明した。
約20分間、引退に至った理由とこれまでの野球人生を穏やかな表情で語った。


「命懸けのプレー終わった」 松井会見1


 「私、松井秀喜は本日をもちまして20年間に及ぶプロ野球選手人生に区切りをつけたいと思い、20年間応援してくださったファンの皆さんに感謝の気持ちを伝えたいと思います」。


 「今シーズンは3カ月くらいしかプレーできませんでした。
マイナーからスタートし、メジャーに上がり、プレーする機会をいただきクリーンアップを打たせてもらいましたが、結果が振るわなかった。
これが一番大きな要因です。
10年前にメジャーに挑戦するときに話しましたが、
『命懸けでプレーし、メジャーという場で力を発揮する』
という気持ちでやってきましたが、結果が出なくなったということ。
『命懸けのプレー』もこれで終わりを迎えたんじゃないかと思います」。


「長嶋監督に感謝」 松井会見2


 「僕の野球人生を振り返りますと、北陸の小さな町で生まれ育ち野球を始め、地元の高校で甲子園に出るという目標を達成でき、注目もしていただき、
高校3年の時、ジャイアンツにドラフト1位で指名していただき、
長嶋監督にクジを引いていただきました。


長嶋監督に出会い、毎日のように2人きりで指導していただき、
その日々が僕の野球人生にとって大きな礎になりました。
その出会いに関しては大きなもの、
長嶋監督には感謝し尽くせない気持ちでいっぱいです」。


「ヤ軍での7年間が最高」 松井会見3


 「ジャイアンツで10年間で3度の日本一。
日々幸せで充実した時間を過ごせました。
センターにコンバートされた時、長嶋監督から
ジョー・ディマジオのような選手を目指せ』
と言われたんですが、その時ぼんやりとヤンキースというチームをイメージし、ずっと頭の中に残りました。


99年のオフ、ニューヨークのヤンキースの試合を1日でいいから見てみたいと思いアメリカに行きました。
ヤンキースタジアムヤンキースの試合を見たことが運命のような気がします。ヤンキースの選手が放っている空気、ヤンキースタジアムの雰囲気。
3年後にFAになるのは分かってはいましたが、
3年後、このチームから欲しいと言われるような選手になりたいと思いました。


そして3年後、運良くヤンキースに誘っていただき、
(決断まで)苦しい思いもしましたが、あこがれのヤンキースで7年間もプレーできたのは、僕にとって最高の出来事でした。
ヤンキースタジアムで初めてプレーしたこと、
最後にプレーしたことは一生忘れることはありません」。


「今後の事ゆっくり考える」 松井会見4
 

 「20年間たくさんのファンの方に応援していただき、
僕の大きな力になりました。
素晴らしい指導者とチームメート、僕にとって一番大きな誇りです。
今後につきましては、まだ(引退を決断して)時間もたっていませんし、
あまり決めておりません。
ゆっくりしながら今後のことを考えていきたいと思います。
20年間、ファンの皆さま、温かい声援をくださり、ありがとうございました」。