自然法爾

川向かい 雪色の中に 梨畑


「あの時、こうすればよかった」
「どうして、気がつかなかったんだろう」
「悪いことをしたね ごめんね・・・」


後悔はいつまでも消えません。


それでも許されているわたしです。


自然法爾章は何度も訪ねたいところ、
ここが一番落ち着く私の“ふるさと”のように思います。


   『善いとも悪いともはからわないことを自然というのである』


全休さん 私のために用意してくださって有難うございます。
お借りします。

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自然の自はおのずからということであります。
人の側のはからいではありません。
然とはそのようにさせるという言葉であります。
そのようにさせるというのは、人の側のはからいではありません。
それは如来のお誓いでありますから、法爾といいます。
法爾というのは如来のお誓いでありますから、だからそのようにさせるということをそのまま法爾というのであります。


 また法爾である如来のお誓いの徳につつまれるために、およそ人のはからいはなくなりますから、これをそのようにさせるといいます。
これが判って、すべてあらためて人ははからわなくなるのであります。
ですから義の捨てられていることが義である、と知らねばならないといわれます。
言葉をかえていいますと、自然というのは、元来そのようにさせるという言葉であります。


 阿弥陀仏のお誓いはもともと、人がはからいを離れて南無阿弥陀仏と、仏をたのみ奉るとき、これを迎えいれようとおはからいになったのですから、人が自らのはからいを捨てて、善いとも悪いともはからわないことを自然というのである、と聞いています。
如来のお誓いのかなめは念仏の人をこの上ない仏にさせようとお誓いになったことであります。


 この上ない仏といいますのは形もおありになりません。
形もおありにならないから自然というのであります。
形がおありになるように示すときには、如来のさとりをこの上ないものとはいいません。
形もおありにならないわけを知らせようとして、とくに阿弥陀仏と申し上げると、聞き習っています。
阿弥陀仏というのは自然ということを知らせようとする手だてであります。


 この道理がわかれば、この自然のことを常にとやかくいう必要はありません。いつも自然ということをとやかくいうならば、義の捨てられていることが義であるということさえが、なおはからいとなるでしょう。
これは如来智慧が人の智慧のとどかないものであることを示すものです。


 正嘉二年十二月十四日  愚禿親鸞 八十六歳
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