「 二度、生まれる」(4)

立秋も過ぎて


こころの時代〜竹下哲 「 二度、生まれる」〜より
                    長崎県社会教育長  竹 下  哲
                    ききて          金 光  寿 郎

〈第四回〉
金光:  これは、しかしそういうふうにお話を伺うと、そうだと思いますが、大人でなくても、子どもでもそういう感じをちゃんと感じている場合もあるわけでございますね。
 
竹下:  そうですね。
むしろ子どものほうが純情ですから感受性が強いんじゃないでしょうか。
それで先だって子どもの詩集を読んでおりましたら、小学校一年生の男の子が、「かぜになって」という詩を作っているんです。

     「かぜになって」

     かぜになったら
     かあちゃん
     かせいでっとこさいって
     あせひっこめてやるんだ
     すっと
     うんとかせがれっぞい
       

という言葉です。
私、爽やかな風になったら、お母さんが、―「かせいでっとこ」というのは、稼いでいるところ、ですね。働いているところに風になって飛んでいって、お母さんの汗を引っ込めてやるんだ。

「すっと」というのは、「そんなら」「そうすると」でしょうね。
そうするとお母さん稼がれるぞい。ウンと仕事ができるでしょう。
素晴らしい純情な詩ですね。
お母さんと一体となっています。風と一体となっています。
そういう感覚というものは非常に大事なことだ、と私は思うんです。

金光:  先生は長年教育の畑で仕事をなさっていらっしゃるわけですが、今のお話を教育の場で考えますと、どういうことになりますですか。

竹下:  そうですね。いろいろなことが言いますけども、例えばよく聞かれるんです。
「先生、叱るのはどう叱ったらいいでしょうか?」とかね、
「誉めるのはどんなふうに誉めればいいでしょうか?」と。
誉め方叱り方をよく聞かれるんですね。
誉めることも必要だし、叱ることも必要です。
ですけども、そのもっと根底に、叱るのではなくて悲しむのだ、と思うのです。

金光:  相手がなんかしくじった場合に、叱るんじゃなくて一緒に悲しむ。

竹下:  「どうしてそんなことをしたの?」と悲しむのですね。
誉めるのではなくて喜ぶんだと思うのです。
「よくやってくれたね。先生、嬉しいよ!」。
そういう悲しむ、喜ぶという一体感ですね。子どもと一緒になる。
そこからはじめて、叱るということが意味を持ち、誉めるということも意味を持つんだと思うので、ただ叱る誉めるだけだったら、自分は安全地帯におって、
「お前はダメだ」「お前は良かった」というだけのことだと思うのです。
教育というのは、子どもと一体になる、ということが原点ではないでしょうか。  

金光:  そういういろんな場所で、そういうふうに周りの者と共感を持って生活できるというと、これは毎日の生活が非常に厚みを持って、といいますか、味わいが非常に深くなるということでございましょうね。

竹下:  そう思いますね。ですから一人だけで生きているんじゃなくて、
あの方、この方、あの人、この人、草や木とともに生きているということは、
そういうもののお蔭で生きているということなんですね。
それで思い出したけども、佐々木信綱という先生がいらっしゃいます。

金光:  有名な歌人の方ですね。

竹下:  有名な国文学の第一人者であり、また有名な歌人でいらっしゃいます。
その佐々木信綱先生のお歌に、こういう歌がございます。

       ありがたし今日の一日(ひとひ)もわが命
       めぐみたまへり天(あめ)と地と人と          

という歌ですね。思えば、朝目を覚ましてみると有り難いことである。
今日の一日も、私のいのちも恵んで頂いた。恵みたまえりですね。
それは天、例えば太陽の光、或いは雨が降ってくださる。大地。
いろいろの穀物、野菜を作ってくださる人、いろいろ額に汗して働いてくださって、例えば一杯のご飯でも炊いてくださる。
お米でも作ってくださる。そういうお歌があります。
やっぱり第一人者にしてこの言葉あり、と私は思うんですね。
                 〜平成四年三月八日、NHK教育テレビ「こころの時代」より〜
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