「 二度、生まれる」(3)


こころの時代〜竹下哲 「 二度、生まれる」〜より
                    長崎県社会教育長  竹 下  哲
                    ききて          金 光  寿 郎
〈第三回〉
金光:  竹下先生にとっては、弟さんのガンの宣告を受けられて亡くなられるまでのご生活を見ながら、一緒に、しかも『歎異抄』などを読まれて生活なさったそのことが、その後の生き方というのに大きな決定力を持っていた、ということでございますか。

竹下:  はい。今申しましたように、小さい頃から宗教的な雰囲気の家庭に育ちました。
山本晋道先生によって点火されました。
そして、金子先生、その他の先生方から導いて頂きました。
そして決定的にしたのは弟の死ですね。
弟が命を懸けて私に教えてくれたんだ、と思います。
それで、二回目の誕生と言いましたが、さらに言いますならば、三回目の誕生があると思うんです。
それは今生の命が終わって、お浄土に往生して仏にならして頂く。
それが三回目の誕生であろう、というふうに私は思っております。

金光:  今日は、二度の誕生ということがテーマになっているわけでございますが、じゃ、そういうお話を聞いて、自分もそういう人間になりたいと思う場合に、どういうふうに目覚めて生きていけばよろしいでしょうか。

竹下:  それはなかなか難しいですけども、仏法に出会って、お念仏申す身にならせて頂くと、いろいろなことに目覚めることができるように思うのです。
三つ差し当たってあげることができると思うんですが、
その第一番目は、自分一人で生きているんじゃないんだ。
みな一緒に助け合い、保ち合って生きているんだ、という目覚めを与えられるんだ。
そういう目覚めを賜るんだ、というふうに私は思うのです。

金光:  「みんな一緒」というと、人間みんな、という意味でございますか。

竹下:  勿論人間も、あの人この人と一緒にだし、
それだけではなくて、「草木虫漁(そうもくちゅうぎょ)」と言いますね。
草も木も虫も魚も、馬も牛も諸(もろ)ともに一切万物が助け合いながら一緒に生きている、こういうふうに私は思うのです。
そういうことになんか目覚めさして頂いた、という感じが致します。

金光:  たしかに人間というのは、人間同士だけではなくて、
空気にしても太陽にしても、いろんなものの中で頂いて生かされているということでございますね。

竹下:  よく仏教で「重重無尽の因縁(「華厳経」)」と言いますね。
それぞれ重なり合い繋がり合って助け合いながら生きている。
それを「重重無尽」というお言葉があります。
そういう存在として、私も生き、あなたも生きているんだ。
それの自覚というものが大事ではないでしょうか。

金光:  そういう自覚があれば、草や木も人間の都合のいい時にだけ勝手に使ってしまうということにはならないわけでございますね。

竹下:  そうだと思いますね。今どんどん木が切られております。
地球温暖化」というふうに言われております。
やっぱり木を大事に、花を大事に、動物を大事に、一緒に手を握って生きていく、ということが大事だと思うんですね。

金光:  これは現代たしかにその通りだと思うんですが、もっと以前にもそういうことにちゃんと目覚めて述べていらっしゃる方も当然お出でになるわけでございましょうね。

竹下:  仏教の先覚者はみんなそうなんですけども、近いところでは有名な宮沢賢治ですね。宮沢賢治も仏教に生きた方ですけれども、宮沢賢治の言葉に、

     世界がぜんたい
     幸福にならないうちは、
     個人の幸福は
     あり得ない

            
こういう有名な言葉があります。
自分一人幸福になることはないのですね。
世界全体が幸福になって、はじめて自分の幸福もあるんだ、と。
ですから、例えばベトナムとかカンボジアで難民があるということは、
私たちもやっぱり不幸でもある。
或いはアフリカで飢えている人がいる、ということは、私どもの痛みでもある。
みんな一緒に生きているんだ。
そういう自覚が大事なことだ、と思っております。

金光:  「重重無尽」という言葉を、今の言葉で言い換えられたのが、
「世界がぜんたい幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」というふうに考えてもいいわけでございますね。

竹下:  はい。そうだと思います。

金光:  今、宮沢賢治の例が挙げられたんですが、他の方も随分おっしゃっているわけでございましょうね。

竹下:  ええ。たくさんの方がおっしゃっていまして、
例えば広島時代に学びました金子大栄先生はこうおっしゃっています。

     露しげき雑草の土に帰することなくば
     巨木も生い立つにところがない

というお言葉があります。
露をいっぱいはらんでいる雑草ですね、やがて土になります。
その土を土台として大きな巨木が亭亭と聳えているんですね。
だから巨木は雑草に手を合わせる必要があると思うんです。
また雑草も巨木が葉を茂らせて秋になると葉を落とします。
それが土に帰って養分になります。その養分を頂いて雑草も生きるんですね。
お互いに保ち合って、お互いに合掌しあって生きていく、ということが道理のある世界ではないでしょうか。

  卑近な例ですけども、ご承知の通り長崎は坂が多いのですね、石段が多いのです。先だって、石段の上の空き地に家が建ちまして、新築工事が始まっているんです。
ふと見ておりましたら、馬が―小さな馬なんです。
対馬で産する馬なんですけども、忍耐力が強くて従順で力も強いのです。
その馬が建築用材の砂利を運び、材木を運び、瓦を運んでいるんです。
それを見たとき、グッといましたですね。
朝暗いうちから、陽が暮れるまで、黙々として、上り下り、上り下り・・・何十回じゃありませんよね、何百回も材木を運び、砂利を運んでいるんです。
黙々としてですね。
思わずその馬の額を撫でてあげました。
馬よ有り難う、と。

そうなんですね。私ども立派な家に住んでいる。
それは快適でいいでしょうけども、自分の力ではないのであって、例えばそういう馬が一生懸命働いてくれている。
馬の汗も涙も滲んでおるんだ。
そういうことを感じて生きていく、ということが人間らしい生き方だ、と言えるんじゃないでしょうか。
         〜平成四年三月八日、NHK教育テレビ「こころの時代」より〜

「 二度、生まれる」(1)
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