決めないままの安心 4
決めないままの安心―高光大船師のまなざし
大谷大学教授 水島見 一(1950年富山県に生まれる)
ききて 金光寿郎
金光: そういう受け取り方ができると、それこそ自分はこう思うから、これで極楽へ行けるだろうとか、お浄土へ行けるだろうと思っている信心の方もいらっしゃるかと思うんですけれども、それは思う必要がない世界であると。
水島: 受け取るよりほかないです。
それであれば仏教手段ですわ。
仏教は、「どこまでもお前は助からんのだ」と。
要するにお前は死ぬ身なんだぞと。
これを突き付けて、「そうでございました」と言って受け取る。
まあそれしか実はないんだろうと。
金光: でも、そうなると、この世の中で生きるのには、非常に弱い人間になってしまうんじゃないかと―やっぱり理屈で考えてですよ。
だって「自分はダメだ」と言ったら、何も主張できない人間になってしまうんじゃないかというふうに怖れる、あるいはそれじゃ私は生きていけないわ、と考える。
そういう方向へ思ってしまう人もいるんではないかと思うんですが、
その辺は違うんですか?
水島: そうです。
むしろ「大力量あり」ということがありますね。
「大力量あり」と。
風吹けば倒るという形で。
だから本当の力量のあるものは―免震構造と一緒ですね―
風が吹いても柔軟にこうして、
時にはパタッと倒れてしまう。
しかしまたスーッとよくなると。
俺は生きているんだと、こうなった時に、
風が吹いたらポキッと折れてしまうという。
どちらが本当に強いのかと言ったら、
仏法の世界では大力量あり、風吹けば倒ると。
負けて生きる世界と。
だからなかなか社会に通用しないんですけども、通用し難いように思いますけども、
しかし私なんかもこんな仕事をしておりますけども、
こんな仕事をまともにやっていこうとする時は、
腹が据わるということがなければやっていけませんですね。
腹が据わるというのは、おそらく親鸞聖人で言いますと、
「地獄は一定(いちじよう)すみかぞかし」と。
「地獄は一定すみかぞかし」という形で、自己の居場所を確立させると。
これがいわゆる大力量のある生活ではなかろうかなということは、思いますね。
だから私の中には、どう言ったらいいんでしょうね―柔軟な心―柔軟心と言いますか、
そういうものがやっぱりなければ、ぶつかって歩くし、なるものも成らなくなる。
そういうふうな感じが致しますですね。
水島: 大体自分の人生振り返ってみましても、なんか自分で選んだような人生のような錯覚はあるかも知れないけども、どうでしょうね、
好んでこういうところに坐ろうという思いもないけども、坐る時が来たら坐らざるを得ないし、坐れないと思っておっても、坐れることもあるし、
だからもし自分の思う通りの形で、自分の仕事とか居場所を決めていけるんであれば、
それはそういうようなこともあり得るかも知れませんけども、
よう振り返ってみたら、これは何と言いましょうか、
「与えられた」というような言葉でしょうか、
富山や能登の言葉で言いますと、「あたわりや」と。
自分の仕事は「あたわりや」と言って、文句一つも言わずに―
例えば家の嫁が嫁いだお寺の門徒さんのおばあさんは、
いわゆる業の生活、宿業の生活というものでありますけども、
それは「運命だ」と言わないんです。
「あたわりや」(天から与えられた運命・宿命のこと(厳密には「あたわりやわいね」)とこう言っておられる。
それはやはり一つの解放された世界ですね。
だからそういうところにおいて自分の業を尽くすということでありますので、
だから私もこれはどうなるのやなということはいろいろ思います。
自分もこの後どうなるのやということも思いますし、
しかしそうと思うことが、大体自分の人生を自分で決めようとしているわけですから。
しかし、あ、そうでなかったんだと。
業も因縁の世界であって、その業を尽くす。
今ここに業を尽くすんだったというところに、
「決めるな、決めるな」ということで一つの力強いと言いますか、
そういう世界があるような感じがしますですね。
だから引き受けていける力、そしてそれを引き受けて、そこに力を尽くしていける力、
それは「決めるな、決めるな」という、そのような感じを私は得ています。
金光: こういうおっしゃっていることが受け取れる方というのは、ほんとに幸せではなかろうかと思いながらお話を伺いました。どうもありがとうございました。
これは、平成二十六年八月三十一日に、NHKラジオ第二の
「宗教の時間」で放送されたものである。
高光大船(たかみつだいせん) (1879-1951)
金沢市の真宗大谷派専称寺の住職。清沢満之の影響をうける。
大正5年金沢に藤原鉄乗,暁烏敏(あけがらすはや)と愚禿(ぐとく)社を設立し、
雑誌「氾濫(はんらん)」を刊行。
15年から自坊で講習会を定期的にひらいた。