決めないままの安心 3

      決めないままの安心―高光大船師のまなざし
                大谷大学教授  水島見 一(1950年富山県に生まれる)   
                    ききて   金光寿郎

金光:  大船先生の若い頃のお言葉だと思うんですが、
「描写(びようしや)の行信(ぎようしん)」と「沈潜(ちんせん)の行信(ぎようしん)」という言葉がありまして、
これは私なりに「描写の行信」というのは、人間が頭の中でいろいろ考える、
自我が作りあげた行であり、信であり、
それに対して、「沈潜の行信」というのは、人間が掴まえようと思っても潜水艦のように潜ってしまって、掴まえようのないところにこう生きて働いている行と信。
このことを対比されて―人間は分けて話さないとわかりにくいところがあるもんですから―そういう意味で「描写の行信」と「沈潜の行信」とうことを話されたんではなかろうかと思ったんですが、そういう解釈でよろしいでございましょうか?  

水島:  そうですね。だから下手すればですよ、「国土荘厳」と言って、
それに随順してやっていけるということは、「描写の行信」になりやすいと。

こういうようなことがありまして、実は「描写の行信」の背景には、
これは清沢満之もそうでありますし、高光大船もそうでありますし、
曽我量深先生とかも、金子大栄先生も全部そうでありますけども、
そこには絶対に「自力無効」という、その実験があるんですよ。

その実験が我々にとっては大仕事でございまして、その実験を潜らずして、
「国土荘厳」などこう言ったら、これは「描写」。
だから「自力無効だ」というのが、これ「沈潜」ですね。
それがなかったらもう神ですね。

金光:  その「実験」というのは、「実際の経験」とか「実際の体験」?  

水島:  実際の経験ですし、清沢満之は、「実験せい」とおっしゃます。
「自分を仏道実験するんだ」と。
だからそういう形で明治近代において、江戸時代の封建的な仏教を解放したのは清沢満之
実験主義をもって解放したんですけども、自ら仏道に生きてみようじゃないかと。
「自ら仏道に生きてみたら、わかってくるのは甚だ骨が折れることでございました」という、
自力の限界―これ親鸞も当然そこを潜って来ておられるわけでありますし、
みんなそれを潜ってきている。

ところが自力の限界において、初めて、あ、解放されておった自己であったということが気付かれる。
だから「機」という自分も暗黒の自覚において、
その自覚はどうして成り立ったかと言ったら、法によって照らされていたから暗黒がわかったという。

この十円玉の裏表みたいなものです。
裏がわかったということは表があったんだという。
このような解放というものが、解放が国土荘厳。
しかしその裏には熾烈なる自力無効の営みがあると。
こういうところに一つの求道のプロセスと言いますか、歩みというものがやはりもっとも大事なのではなかろうかというようなことであります。

水島:  なんと言いますかね、我々は、自分は沈みたくないですから、沈まないとこう思ってやるんですけども、
ところが実際の現実というものにぶつかれば、これは沈まざるを得ないという状況には、これはよくぶつかるわけでありまして、そこら辺であります。

だから沈まざるを得ない状況だというところにおいて、初めて自力無効だと。
だから高光一也さんがよく言っておられたのは、
「仏法は正直な者でないとわからない」と言っておられた。
誤魔化す者は沈まないです。

沈まないうちに、「彼奴(あいつ)のせいだ」とか、そういう形で全部責任を人のせいにしたり、社会のせいにしたりしていきますけども、
正直なことをいうたら「俺はあかんもんや」ということを、正直なれと。

また正直になれば正直に堕ちると。
落ちたところが、いわゆる仏の手の中だったみたいですね。

そういうような一つの求道というのがありまして、だから今のいわゆる仏教の世界というのは、自我を、自己を強くするような今日の逆でありまして、
だから暁烏敏(あけがらすはや)(1877-1954)という高光大船の兄貴分でありますけども、
あの方なんかは、

「お前がここで聞いた仏法を全部ここに置いて帰れ」
というわけです。
「持って帰ったら何するかわからん。だからここに置いて帰れ」。

そうしたら我々は、耳で仏法を聞いて、聞いた仏法を持って自分を強くして人をやっつける。

「これ仏法は、自分を撃つんだ。
仏法は、鉄砲の反対じゃ!。
それじゃ、鉄砲は、生きとるものを殺すものやろ。
仏法はその反対。死んどるものを生かすものや」。

だからほんとの高光大船とかのお説教というのは、どういうお説教かと言いますと―私、聞いたことないんですけども―
おそらく「お前は助からん奴だ」という形で、
「お前自身に鉄砲を向けさせる」というお説教をされたんじゃないかと。
もうそれでいいんだと。

後は自分が地べたに堕ちたら、そこが実は光明の世界だったという。
光明の世界を一々いう必要はない。堕ちたらわかると。
こういうところを真っ正直に、それが高光大船なんです。
だから誤解もされたかも知れません。
                              (つづく)

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