「 二度、生まれる」(6)
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その時にです、一人の男の人が背広を着たままプールに飛び込みました。
その学校の校長先生だったんです。
その校長先生は背広のままその子と泳ぎながら、
「しっかりね!しっかりね!校長先生も泳ぐからね!
我慢してしっかりね!」
涙を流して一緒に泳がれたそうです。
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ここのところはご本で読んだことがありますが、いつまでも心に残っています。
こころの時代〜竹下哲 「 二度、生まれる」〜より
長崎県社会教育長 竹 下 哲
ききて 金 光 寿 郎
〈第六回〉
金光: 先生は随分教育畑で長くお過ごしになっていらっしゃるわけですが、そういう普通の人が考える有用性だけで考える世界と違う「各各安立」の実例をいくつかご存じだと思うんですが、一、二ご紹介して頂けませんでしょうか。
竹下: 有用性だけでいくと、子供たちは育たないのですね。
それでせっかくそういうお尋ねですから、
東井義雄先生から承ったお話を思い出しました。
それは、広島県のある高等学校の話です。
大変荒れた高等学校だったそうです。
その高等学校で学級対抗の水泳の競争が、四人一組で競争があったんだそうです。
あるクラスでは、三人がすぐきまったのですが、後の一人が決まらなかったそうですね。
その時にその学級の番長が、「Aにしよう」と言ったんです。
Aさんというのは女の子で、しかも小さい時に小児麻痺を患っていて、身体が十分でないのです。
泳げるんですけども早く泳げないんです。
その子をどうして指名したかというと、みんなで笑い者にしよう、という魂胆なんですね。
いよいよ当日がやってきました。
Aさんの出番がやってきました。
Aさんはプールに飛び込みましたけども、何しろ小児麻痺を患った身体ですから、一生懸命泳げば泳ぐほど滑稽なんですね。
みんながドッと笑いました。
その時にです、一人の男の人が背広を着たままプールに飛び込みました。
その学校の校長先生だったんです。
その校長先生は背広のままその子と泳ぎながら、
「しっかりね!しっかりね!校長先生も泳ぐからね!
我慢してしっかりね!」
涙を流して一緒に泳がれたそうです。
その光景に全校生徒が粛然とし、その二人が長い時間をかけてやっとゴールインした時に、みんな泣きながら拍手をしたんだそうです。
そのことがあって、次第にその学校は平静さを取り戻したということです。
それは運動神経が鈍いからダメだではなくて、小児麻痺なら小児麻痺の子どもとして輝いて生きていっているんだ。
それを認めた校長先生の偉さ素晴らしさでしょうね。
それが全校生徒を感泣させたんだ、と私は思うのです。
金光: 多少身体が不自由な生徒さんの場合も一生懸命やっている。
その姿が非常に感動を与える。
やっぱり身体が十分動かなくても、人間というのはいろんな働きができる。
先ほど神谷先生の言葉にもあるように、そういう働きが人間にはあるわけでございますね。
竹下: 頭が良い悪い、仕事ができるできない、ということだけで切り捨ててしまいますけども、そうでなくて寝た切りの老人もいつの間にかお役に立たして頂いているんじゃないでしょうか。
実は先だって、ある方のご本を読みまして大変感銘を受けました。
その方は七十歳近い方です。
心筋梗塞で倒れて寝たきりに(しばらくの間ね)、その時に看護学校から実習生が派遣されて来た。十九歳の女の子だそうですよ。
その少女が三週間その方の看病をしたんだそうです。
とても親身で、三度の食事、それから熱がありますから氷枕を取り替えてくれる。
親身に世話してくれるんだそうです。
そして五日間通じがなかったそうですけども、やっと通じがあったんだそうですね。
粗相してシーツを汚してしまった。
大変恐縮していると、その子が飛んで来て、奇麗に拭いてくれて、
「おじさんよかったですね。気持がスーッとしたでしょう」とこういうんです。
あんまり親切に言うものですから、
「あなた親切ね、どうしてそんなに親切にしてくれるの」とこう聞いたら、
「おじさんが役に立って下さっているんです」
と、その子が言うんだそうです。
「へぇ、どうして?」と言いましたら、
「私におじさんぐらいの歳の父が故郷にいます。ガンなんです。
看病したいけども、私、学校におりますので看病できません。
おじさんを見ると、父親みたいな感じがします。
父親と思って看病させてもらっています。
おじさんのお蔭で、私、親孝行させてもらっています。
ありがとうございました」
というんだそうです。
そして、三週間の実習が済んだ時に、看護のレポートを持って来て見せるんだそうです。
「おじさんのお蔭で、こうして立派なレポートを作ることができました。
ありがとうございました」というんだそうです。
その方はとても感銘した、と。
そして、一つのことを覚ったというんですね。
「おれは役に立っているんだ。役に立つんだ、と。
頑張るのもいいかも知れんけれども、しかし寝たきりのこの私であっても、
いつの間にかみなさんのお役に立たせて頂いているんだなあ、
ということを私実感しました」
と、その本に書いてございました。
そうでしょうね。役に立っているんだ。ある意味で傲慢ですものね。
あの人がおるんで上手くいかん。
あの人がおらんならもっと上手く仕事ができるのに、と人を傷つけ、人間関係をダメにするんじゃないでしょうか。
よく若い人たちで、「おれはもうダメだ」なんていう人多いです。
それはむしろ賜ったいのちに対する冒涜だと思いますよ。
人それぞれに生きる意義を与えられて生きているんじゃないでしょうか。
自分の花を咲かせることが大事なことではないでしょうか。
金光: お経本の中にもそういう言葉がございますですか。
竹下: 『阿弥陀経(あみだきょう)』というお経がありまして、私の大変好きなところなんですけども、こういうお言葉があります。
池中蓮華(ちちゅうれんげ)
大如車輪(だいにょしゃりん)
青色青光(しょうしきしょうこう)
黄色黄光(おうしきおうこう)
赤色赤光(しゃくしきしゃっこう)
白色白光(びゃくしきびゃっこう)
微妙香潔(びみょうこうけつ)
というのですね。
お浄土の池の中に蓮の花が咲いています。
大きさは車輪のようです。
そして青い蓮の花は青い光を放っています。
黄色い蓮の花は黄色い光を放っています。
赤い蓮の花は赤い光を放っています。
白い蓮の花は白い光を放っています。
その光がお互いに反射して荘厳なお浄土の風景であり、
また言いも言えぬ香りが辺りに漂っています。
こういう大変美しいところですね。
私はこの経文を読みまして、
「ああ、それぞれの花が自分の花を咲かせているなあ」
ということに感心しました。
それを一歩進んで、「君は君でいいんだよ、という世界だ」と思うのですね。
青い花に向かって、
「青い花はダメだよ。白い花を咲かせなさい。赤い花を咲かせなさい」
それは無理です。必要ないのです。
青い花は青い花を咲かせて、それでいいのです。
十分お役に立っているんです。
赤い花もそうです。
黄色い花もそうですね。
各各安立の世界だ。
そしてお互いに助け合っている世界だ、というふうに私は思うのです。
竹下: それで親鸞聖人のお言葉なんですけども、『唯信鈔文意』というのがありまして、その中に、
法身(ほっしん)は、
いろもなし
かたちもましまさず。
しかれば、
こころもおよばれず、
ことばもたえたり。
というお言葉があります。
「法身」というのは仏さまです。
私ども目に見える色もありません。
形もありません。
ですから想像することもできないし、表現もできませんですね。
じゃ、我々と無関係の存在かというと、そうではなくて、
続いて『一念多念文意(いちねんたねんもんい)』という中に、
この如来、十方微塵(じっぽうみじん)世界にみちみちたまえるがゆえに、
無辺光仏(むへんこうぶつ)ともうす
というお言葉があります。
十方微塵世界に充ち満ちていらっしゃる。
だから無関係ではなくて、ご飯となり、お魚となり、
いろいろのものになって働いてくださっています。
金光: 見えないけれども我々に充ち満ちている、ということでございますね。そのことが先ほどの作文にもありますし、それからこれまでのずっと話して頂いたお話の中でも、
その充ち満ち給える如来様の働きというものをいろんな例で実証して頂いた、
ということになるわけだと思います。
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今日はいろいろと大変貴重なお話を聞かせて頂きまして有り難うございました。
竹下: 有り難うございました。
終わり
〜平成四年三月八日、NHK教育テレビ「こころの時代」より〜
「 二度、生まれる」(1)
「 二度、生まれる」(2)
「 二度、生まれる」(3)
「 二度、生まれる」(4)
「 二度、生まれる」(5)
☆(1)から(6)までにわたって、一部省略してあります。
こころの時代〜竹下哲 「 二度、生まれる」〜で全文が読めます。
こころの時代〜竹下哲「いのちをはぐくむ」〜(昭和61年4月6日)はこちらです。