磐梯山よ、さようなら

陸奥の旅三日目は、
八幡平アスピーテラインで山頂に向かい、八幡平散策の予定でしたが、
到着したら雨で雲の中の人に。

山頂付近で 視界5メートルで撮ったのはこの1枚だけ。

「雲をつかみた〜い!」
みくちゃんはいつも本気で言っています。
     雲のお土産無限大  宅急便で送りたい

ヒスイ色の湖沼、山頂に広がる大パノラマは幻となりました。
                    
旅行社のネットより

下界は晴れ、
世界遺産 中尊寺 を訪れる頃には、カンカン照りで汗だくになりました。
奥州藤原氏初代藤原清衡が天治元年(1124年)に建立したもので、
平等院鳳凰堂と共に平安時代浄土教建築の代表例です。

中尊寺金色堂

中へ入って拝観します。
漆塗りに金箔をはった金色堂は光輝いていました。
金色堂には「中央壇」「左壇」「右壇」の3つの須弥壇があり、
各壇に藤原清衡、基衡、秀衡のミイラ化した遺体1体ずつが安置されています。
歴史に弱い私も、今後は大河ドラマに興味がわくかも知れません。

先へ進むと、芭蕉の句碑がありました。

      五月雨の 降り残してや 光堂    芭蕉


帰り道、境内「東物見展望台」から、北上川を眺める事が出来ました。
手前に東北本線が見えます。


来た道は帰らなければなりません。

磐梯山を右に、

猪苗代湖を左に、JR長岡駅に向かってバスは進みます。

磐梯山山頂から


野口英世のふるさと
野口英世明治9年(1876)11月9日、猪苗代町(当時は三ツ和村)三城で農家の長男として生まれ、清作と名付けられました。
火傷で左手が不自由となり家業である農業はできないため、
家は貧しかったのですが小学校や高等小学校を出て、
さらに医師になるための勉強をしました。
英世にとって故郷は、生涯にわたり忘れられないところでした。

「 志(こころざし)を得(え)ざれば再(ふたた)び此地(このち)を踏(ふ)まず」
 清作(英世)が、満二十歳になる直前に上京する際の、決意の刻文。
生家の床柱に今も残されています。
清作は、三城潟から東北本線本宮駅まで約三十六キロメートルを歩き、
そこから東京へ向かいました。


英世に宛てた母シカの手紙が思い出されました。
明治四十五年一月二十三日付、今に残る母からの唯一の手紙です。

・・・・・
おまイのしせ(出世)にわ。みなたまけました。わたくしもよろこんでをりまする。なかた(中田)のかんのんさまに。さまに。ねんよこもり(毎年 夜籠り)をいたしました。べん京(勉強)なぼでもきりかない。いボし《注1》ほわこまりおりますか。
おまいか。きたならば。もしわけ(申訳)かてきましよ。《注2》
はるになるト。みなほかいド(北海道)に。いてしまいます。
わたしも、こころぼそくありまする。ドかはやく。きてくだされ。かね(金)を。もろ(貰)たこトたれにも きかせません。
それをきかせるト。みなのれ(皆飲まれ)てしまいます。はやくきてくたされ。はやくきてくたされ。はやくきてくたされ。
はやくきてくたされ。いしよ(一生)のたのみて。ありまする。
にし(西)さむいてわ。おか(拝)み。ひかし(東)さむいてわおかみ。しております。きた(北)さむいてわ おかみおります。みなみ(南)さたむいては おかんておりまする。
ついたち(朔日)にわ しをたち(塩断)をしております。
ゐ少さまに。《注3》ついたちにわ。おかん(拝む)てもろておりまする。なにおわすれても。これわすれません。さしん(写真)おみるト。いただいておりまする。はやくきてくたされ。いつくるト。おせ(教え)てくたされ。これのへんち(返事)まちておりまする。ねてもねむられません。
  注1 烏帽子という村からのお金の催促
  注2 お前が戻ってきたら、申しわけができましょう。
  注3 隣家の鵜浦栄昌、天台宗の修験者
・・・・・

バスと電車を乗り継ぎ、移動だけで一日12時間、
朝8時ホテル出発、帰宅は夜11時でした。
疲れた・・・いやいや、
英世の時代に比べたら、なんと恵まれているでしょう。

郁ちゃんと一緒の東北の旅、楽しかったです。