自分を見捨てない

郁ちゃん、タイキちゃんがビッキーに会いに来てくれました。

一度兼六園に寄りたかったと喜ぶトモミさん

 


きのうの、小学三年生のれのあちゃんの言葉 に、胸を打たれました。

「誰にもわからない人生を歩んでいるときに、
自分が自分を見捨ててしまったらもうおしまいなので、
自分だけは自分を認めたいと思ったときに、
自分をとてもいい人間だと認めないと、やっていけないから、
私は自分をとてもいい人間にしたいので、
人のことは悪く言いたくないし、
あらゆることをきちんと受け止めて行きたいと思っているので、
少し無理をしているかもしれないけれど、
きれいな気持ちで生きていくことに真剣になっています」

「私は普通の子になりたいという思いは普通に持っているけれど、
清らかな心を持てているいまの自分にとても満足しているし、
お母さんもおばあちゃんも、今の私がこうであることに、
なんの責任もないし、
むしろ、いろいろあったかもしれないけれど、
私はこうして、人間のなかで一番清らかな心を持てる人間になったのだから、
お母さんもおばあちゃんも、
できることなら、私を誇りに思ってほしいと思います」


郁代も最期まで自分を見捨てなかったなあと思うと、涙があふれました。
・・・・・
腹水がひどくて、夜も眠れなくなっていた。
郁代の友達は、金沢はもちろん、県外、海外からもこれまで以上に訪ねてくれた。
毎日でも受けてほしい点滴の時間は、面会の時間に充てられた。
水分摂取が腹水を増やすのでは?との不安が拭えないらしかった。
「おかあさんが喜ぶなら」と、しぶしぶ予約しても、直前にキャンセルする日々。

「水分点滴を、なんとか説得してください」と必死になって頼む私に、
「すべてをわかった上での本人の選択ですから。
お母さんも、医師も、郁代さんの〝生き方〟を変えることは出来ないのですよ。
私もお母さん以上に、点滴の必要性をわかっているのですよ」
公立病院で、永年がん医療に携わってきたN医師が言った。
「死に逝くいのちは、お母さんのものでも、医師である私のものでもなく、
郁代さんのものですよ」と、言おうとしていることがわかった。

「自分らしく生き、自分らしく死ぬとは?」
という問いの中で生きてきた郁代は、いま、いのちの長さではなく、
いのちの質を大事にしようとしているのだと私は気付いた。

大切な残り時間を、ひとり安静にして「病」と向き合っていることは、
郁代にとっては「生きている」とはいえなかったのだろう。
「これまでの私の人生が楽しかったのは、あなたのおかげなのよ」
と友人・知人に感謝の気持ちを伝えることが郁代にとって「本当に生きること」だったのだ。

そのことに気づくまでが、私にとっては辛い、辛い時間だった。
夜、痛みと辛さで眠れないのを知っていたから、
昼間も休息の時間を削る郁代を、見ていられなかったのだ。
最期の時まで郁代らしく生きることを、しっかり支えよう。
この日、私の心は決まった。
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「明日また、みんなで来るよ」と、お兄ちゃんが言うと、
「むりしないで。わたしのせいで、みんなが病気になったりしたらいやだから」
昼は看護師に「ありがとう」と何度もいっていた。
郁代は、いつも家族への配慮を忘れなかった。
いのちの極限にいてなお郁代は、
「いまの自分にできる事」をしようとしていた。

私一人が残り、家族は帰っていった。
だが、これが「最後の晩餐」だったと知るのは、わずか十時間後のことであった。

「会いたい人、みんなに会えてよかった。
あしたから、わたしだけの時間にして、静かに過ごすわ…。
これまで、お母さん、完璧やったわ。
必要なもの、必要なことが、いつも直ぐに用意されていたもの…」
力になれなかった…、助けてやれなかった…。
悔いる母を、郁代は「許す」といってくれていた。
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「子どものころから、のびのび自由に育ててくれて有り難う。
わたしを信頼し、やりたいことをやらせてくれて有り難う。
いつも心配してくれて有り難う。
生んでくれて有り難う。
おとうさん、おかあさんの子どもとして生まれて来られて、
わたしはとってもしあわせだったよ。
本当に有り難う」(遺書
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「あなたにあえてよかった」より