おばあちゃんから教えられる 1

近くのお寺で毎年聞かせていただいた松本梶丸師のお話が、
圓光寺HP に書かれてありましたので、一部お借りしました。
有り難うございます。

おばあちゃんから教えられる 1

私の近くに住む、大変聞法されたおばあちゃんが、あんまり聞法しない隣のおばあちゃんに向かって質問をしたそうです。
皆さんもこんな質問を受けたと思って聞いて下さい。
「ばあちゃんとこの阿弥陀さん、どこにかざってある」
こんな初歩的な質問です。
分かりきっていますね。このおばあちゃんだって、躊躇することなく答えたそうです。
「うらんとこの」
北陸では自分のことを「うら」と言います。
「うらんとこの阿弥陀さんはお仏壇の中にかざってある」
こう言ったそうです。これは正解でしょうか。
質問をしたおばあちゃんは
「うらはそんなもんは阿弥陀さんと思うとらん」
と言いました。

質問をされたおばあちゃんはびっくりして、逆に聞いた。
「じゃあ、あんたんとこの阿弥陀さんはどこにかざってあるのや」
そしたら、このおばあちゃんはこう答えた。

「うらんとこの阿弥陀さんはうらの胸から出たり入ったりしとる」
少なくともそのおばあちゃんの返事には、生活の中で生きた如来様に出遇うておられるんじゃないかなと、私は感じました。

皆さん方の胸からも、朝から晩まで出たり入ったりしているものがありますね。
何でしょうか。
言うまでもなく煩悩です。
これは本当にどうにもならんものです。
形があれば取り出して、こんな面倒なものはかなづちでたたき割ってしまえばいいんですが。確かにあるけど、形のないものです。
如来様と似ていますね。
皆さんの毎日の生活からも、一日中出たり入ったりするでしょ。
縁がなければ出てきません。

いつも言いますが、皆さんのお顔を見ると、仏さんみたいなお顔ばっかりです。
いつ腹を立てたやら。豊かな顔なんです。
お寺の本堂に座るだけでこんないい顔になるんですね。
如来さんの功徳でしょう。

なぜかというと、皆さんの心の中に煩悩はあっても、それがはたらいていないからです。
お休みしとるからです。
今の皆さんのお顔は、山で言うと休火山です。
いつもお休みしてくれるといいんですが、そうはいかないんですね、煩悩というのは。
煩悩はわが身に確かにあるんだけれども、自己のうちなる他者と教えられる。
私のうちにあるけれども、私の知恵やはからいでどうすることもできませんね。

そうすると、命そのものがいただきものだということがわかるじゃありませんか。
私の命なんてものは絶対にないんです。
私の命なら私の思い通りになってくれるはずです。
腹を立てないでおこうと思ったら、腹を立てずにおれるはずです。
人の悪口を言わないでおこうと思えば、言わずにおれるはずです。
しかしそうはいきませんね。

どれだけ腹を立てないでおこう、悪口を言わないでおこう、と思っても、
縁が来ればそういうはからいを越えて、内面から沸き起こってきます。

人間の自力は間に合わんなあ、ということをお念仏というんでないでしょうか。

今の皆さんの穏やかな、休火山のような顔も、
家に帰って若い者に何かカチーンと言われてごらんなさい、
たちまち火を噴く活火山です。
煩悩とはそういうものです。
 
自分のうちにあるけれども、どうすることもできない。
けれども、聴聞の場を通して如来様の教えをいただくと、
煩悩の身を知らしてもらう、気づかしてもらう、照らしてもらう時をいただく。
時です。
なるほどそうかという時なんです。

高光大船と言う先生にこういう言葉があります。
「時のない話は人間の話、
 時のある話は仏さんの話」