おばあちゃんから教えられる 2

     ツワブキの花でかくれんぼ     「み〜つけた!」
     

     「そうか、本当に不安と悲しみの娑婆やねえ。
     そやけど、このウラ(私)から悲しみや不安を取ったら、
     なにをよりどころにして生きていったらいいかねえ」

昨日のつづきです。

山崎ヨンというおばあちゃんがいます。現在84才です。
わが名も書けないおばあちゃんです。
しかし、このおばあちゃんは生涯ぬぐうことのできない苦しみを今でもにない、
生涯離すことのできないおばあちゃんです。
苦しみは比較できないと言いました。
しかし、あえて言えば、こんな苦しい業苦といいますか、悲しみを背負ったおばあちゃんは、ちょっと世の中にはいないんじゃなかろうかと思います。
おばあちゃんは言います。
もし仏法に出遇って、仏さんの言葉に出遇って、親鸞様の一言に出遇って、
こういう御縁がなかったならば、とっくの昔にこの子と二人で心中していただろう。

一人娘さんがいるんです。聾唖の娘さんです。二人で生きてきたんですね。
その通りの人生なんです。
このおばあちゃんの苦しみは、ただ聾唖の娘さんがいるだけの話じゃないんです。
村八分にされ、惨憺たる人生です。
しかし山崎さんを見ると、この世のどんな楽しみをもって生きている人よりも、
こんなに豊かに、生き生きと、明るい顔で生きているんです。
これも仏法不思議ですね。 

そういう苦労の中から、仏法に頼らざるをえなかったんです。
それで若いときから仏様の教えを聞くという「時」をいただいた。
損だ、得だ。勝った、負けた。あの人が、この人が。
我々の人生はうっかりすると娑婆のことだけで、「時」がなく流れすぎていく。
それを蓮如上人は「この世のはかなきものは始中終まぼろしのごとくなる一期なり」
と言われた。
はかない幻のような人生として終わっていくと言われたんじゃない。
仏さんの言葉をいただくありがたい者になるんじゃない。
間違いのないこの身を知らされる「時」をもつということです。

「時」はいつも今です。そういう「時」を後生の一大事というんです。
その「時」において開かれる未来が後生なんです。
そういう「時」がいただけなかったら、ただ人生はむなしく流れていくんです。
流転していくだけです。 

仏法に出遇った人の言葉はすごいと思います。
なにも偉い大学者が仏法を知っているわけではありません。
蓮如上人は、知りそうもない人が仏法をいただいていると言われますが、その通りです。全く知りそうもない田舎の人が、ちゃんと間違いのない真実をいただいて、
ありのままに南無と帰命しながら生きています。

山崎ヨンさんは、そんなものすごい不幸になったものですから、新興宗教の人が誘いに来るわけです。
その人はどう言われたか。

「ばあちゃん、暗い悲しみ、不幸、不安ないか」
と言ったそうです。するとおばあちゃんは、
「悲しみと不安いっぱいの人生でのう」
こう言ったそうです。その通りです。
そうしたらその人は、

「そうかい、ばあちゃん、不安や悲しみあるか。
私らその不安や悲しみ取ってあげる会をしとるから、私達の会に来なさい」
と言ったそうです。するとおばあちゃんは、

「そうか、本当に不安と悲しみの娑婆やねえ。
そやけど、このウラ(私)から悲しみや不安を取ったら、
なにをよりどころにして生きていったらいいかねえ」
こう言ったそうです。
すごいじゃありませんか。

私達は悲しみや苦しみがなくなることが仏法の御利益だと思っているんです。
しかし、おばあちゃんはそうではないんです。
この悲しみや苦しみや不安がなかったら、なにをよりどころにして生きていったらいいか。
この悲しみがあればこそ、この苦しみがあればこそ、
如来さんに出遇わしてもろうたんじゃな。
こう言ったそうです。

そしたら新興宗教の人はどう言ったかというと、
「ばあちゃんのこべ(頭)から光り出とる」
と言って帰っていったそうです。

おばあちゃんから教えられる 1


☆ いざ、「能登演劇堂」へ