悪人でさえも救われるという道
昨日の新聞連載「親鸞」、五木寛之さんのことばとして聞こえてきました。
講演会で直接お聞きしたことがあるお話しを、
親鸞フオーラム《講演:五木寛之≫(22)(23) の中で読ませていただきました。
私個人のお話をさせていただきます。
私は昭和二十年の敗戦のときにピョンヤンという町で、ソ連軍の管理下に
いわば難民として滞留することになります。
そういう中で私たちは、三十八度線を越えて米軍の側に行けば、
何とか祖国日本に帰り着けると、いわゆる脱北ということを、
しばしばみんなが試みました。
私たちはソ連軍のトラックを買収して、
どうにか難民キャンプまで無事にたどりついたのですが、
やっぱり五十人くらいのグループは、着いたときには半減してましたね。
そういう中でトラックでチェックポイントを通過するときに、
ソ連軍から必ず言われるのが、『時計は持ってないか?』
『万年筆はないか?』『貴重品はないか?』ということですが、
そのほかにかならず言われたことは
『女を3人出せ!2人出せ!そしたら明日の朝、通してやる』
って、こういう話なんでね。
そうなりますと、グループに二十人か三十人でトラックに詰め込まれておりましても、どの人を出すかっていうのは本当に大変な問題なんです。
自ら進んで志願してくれる人なんか、いるわけはありません。
結局、みんながそれぞれ顔を見合わせながら、
その中の世話役のようなボスが、こそこそと話し合いながら、
結局、若いお譲さんはだめ、子どもを持ってるお母さんはだめ、
これはだめ、あれはだめ、で... その中で身なりが派手で、
かつて、何かこう水商売をしていた経験があるのではなかろうか、
と思うような人とか、いろんな人をですね、候補者として、
みんなで立てて、その前に手をついて、
『すまないが、行ってくれ』と、こういうふうに頼むわけですね。
ところが朝方になって、
ほんとにボロボロになって帰ってきた人たちに対して、
みんなが全員が涙を流してその人を迎え、
その人に礼を言ったかというと、そうではないんですね。
非情な話ですけども、私の横で小さな女の子を抱えたお母さんが、
『近く行っちゃダメよ、病気うつってるかも知れないから』と、
こんなことをこそこそと言うのを聞いて...
あぁ、人間ってのはなんてすごいものだろう、
なんと残酷なものだろうか、
というふうに痛切に感じつつ、
自分もまた、そんなふうにして、
国境線を越えて妹、弟を連れて帰ってきたっていうことに対して、
何とも言えない凄惨な、後ろめたさというものがありまして、
それはず〜っと消えませんでした。
人を突き飛ばして、
ボートにかけた手、トラックにかけた手を足で蹴って、
その人を突き落とすようなカタチで自分が這い上がった人だけが、
帰ってこられたんだ。
だから、 いい人、やさしい心の人、善良な人は、ほとんど帰ってくることができなかった。
ですから、自分は引き揚げて日本に帰ってきたことを幸運だと思いますが、
幾多のそういう人びとの犠牲の上に、
自己犠牲ではなくて、私たちが無理矢理にそうさせた、
そのような行為の上に私たちは帰ってきたんだという、
黒い、重い、そのような罪業意識っていうのを、抱えて生きてきておりました。
そういう人間は救われることはない、
というふうに覚悟しておりました。
自分は悪人である、
これはもう変わらぬ自分の体験からきたものだったんですね。
ですから、私はある年齢になって「歎異抄」と出会い、
親鸞聖人のことばを聞いて、
そういう悪人でさえも救われるという立場..、
悪人でさえも生きていける自分を、
深く責めつづけながらでも強く生きていく、
そういう道があるんだっていうことを知って、
もうほかには無いだろうという感じがしたんですね。
私はなぜ他の哲学や、思想や、たくさん世の中にあるものにすがって、
自分の青年時代から現在までを、生き抜いてくることをしなかったか..、
それはおそらく、親鸞聖人以外にそういうことを語る人がいなかったからではないかと思うんです。
罪業深重(ざいごうじんじゅう)のわれら・・・と。
自分から選んで決めた、自ら行った行為だけの罪ではなくって、
深い深い縁によって生れた罪を背負って、
この世に生きている人間である・・・と。
ですから、私たちは...どういう状況のもとでどういうことをするかは、
それは、ほんとうにそのときの出来事なんです。
その人間の性格のよさとか、道徳性が高いとか、思いやりの心があるとか、
そういうことではないということを、つくづく感じるところがありました。
親鸞フオーラム《講演:五木寛之》(1)〜(30) はこちらからです。