春ですよ

きょうの新聞を開くと・・・いいですねえ〜

春ですよ 結んだこぶし ゆるめてネ

  
            (北国新聞

すぐ下が連載小説でした。
よくお聴きした言葉が浮かんできました。

 「いしかわら つぶてのごとくなる われらなり」  
                             『唯信鈔文意』

五木寛之さんは“われら”をご自身のこととして受け止めていられる、
そのように聞こえてきました。
著書にも何度か書かれていて、
とても大切にされている言葉なのではないでしょうか。   

親鸞 完結編 五木寛之・作 
   270回 ツブテの遺言(4)

(前略)
「なるほど」
親鸞はすでに目の前にいる男が、亡きツブテの弥七の遺児であることを疑ってはいなかった。
「ツブテの弥七どのは、わたしが入山するときに、一つの小石を托してくれたことがある」
と、親鸞はいった。
「自分の心が折れそうになったり、自分がなにか偉い者のように思いあがったときなど、
その石をみて考えなおすようにと言づけられたのだ。
われらはみな、河原の石ころ、つぶてのような者なのだとな。
それがわたしの門出のときの餞(はなむけ)だった。
わたしはいつもその小石を大事にしてきた。
その石のおかげで命をすくわれたこともあった。
その小石は、いまは鴨の河原に返したが、弥七どのの遺された言葉だけは忘れてはいない」
親鸞の言葉に申麻呂は一瞬、はっとしたように顔をあげた。