春ですよ
きょうの新聞を開くと・・・いいですねえ〜
春ですよ 結んだこぶし ゆるめてネ
(北国新聞)
すぐ下が連載小説でした。
よくお聴きした言葉が浮かんできました。
「いしかわら つぶてのごとくなる われらなり」
『唯信鈔文意』
五木寛之さんは“われら”をご自身のこととして受け止めていられる、
そのように聞こえてきました。
著書にも何度か書かれていて、
とても大切にされている言葉なのではないでしょうか。
(前略)
「なるほど」
親鸞はすでに目の前にいる男が、亡きツブテの弥七の遺児であることを疑ってはいなかった。
「ツブテの弥七どのは、わたしが入山するときに、一つの小石を托してくれたことがある」
と、親鸞はいった。
「自分の心が折れそうになったり、自分がなにか偉い者のように思いあがったときなど、
その石をみて考えなおすようにと言づけられたのだ。
われらはみな、河原の石ころ、つぶてのような者なのだとな。
それがわたしの門出のときの餞(はなむけ)だった。
わたしはいつもその小石を大事にしてきた。
その石のおかげで命をすくわれたこともあった。
その小石は、いまは鴨の河原に返したが、弥七どのの遺された言葉だけは忘れてはいない」
親鸞の言葉に申麻呂は一瞬、はっとしたように顔をあげた。