生死を生きる 1

アカデミー賞受賞映画「おくりびと」では描かれなかった、
「生」と「死」の本当の意味。
「死ぬ」とは、どういうことか―?

「それからの納棺夫日記」(2014.02) の著者、青木新門さん出演の、
「こころの時代」(19日再放送)を見ました。

ここに記す内容は要約であり、
これまで何度もお聞きした法話会でのお話も一部混在しているかもしれません。
順不同の場合もあります。

Eテレ 「生死(しょうじ)を生きる」

〜「親族の恥」と言った叔父の死〜

これまでに3000体以上の遺体と接してきました。
納棺の仕事を始めてしばらくした時でした。
疎遠になっていた叔父が突然現われ、
「辞めろ、すぐ辞めろ、大阪や東京ならともかく、こんな狭い富山でやられては親族の者は恥ずかしくて街も歩けない」と。

私は親戚になぜそこまで言われなければならないのかと反抗的な態度を示すと
「どうしても辞めないのなら絶交だ。顔も見たくない」
と異常な剣幕で罵倒されました。
 
私は叔父の剣幕に驚きました。
死体に触れることをそれほど深刻に考えていなかったからです。

私は富山県の黒部平野で生まれましたが、4歳の時、父母に連れられて満州(現在の中国東北地方)へ行き、そこで終戦を迎えました。8歳でした。
難民収容所で母が発疹チフスで隔離された時、4歳の妹が死にました。
その遺体を満州の荒野に捨ててきた体験は、私の生涯を貫く原体験となって脳裏に焼き付いています。
そのような、難民収容所や引き揚げの際に毎日死んでゆく人を見て過ごした経験があったからかも知れません。

しかし、叔父から「親族の恥」と言われてから意識するようになり、
世間体を気にするようになりました。
一度意識し始めると、世間から白い目で見られているような感覚に陥り、
誰とも会わなくなって、卑下しながら隠れるような生き方になったのです。

しばらくして、あの「親族の恥」と言った叔父が末期癌で入院していることを知りました。
 私は「ざまあみろ」と思っただけで見舞いには行きませんでした。
しかし数日後、母から
「意識不明の危篤で、今晩か明日が峠だって、あなたは世話になったのだから今日中に顔を出してあげて」
と泣き声で電話がありました。
母の泣き声で行こうと思ったのではなかったのですが、
意識不明なら行ってやろうかと思ったのでした。
父も母もいない少年時代に父親代わりのように育てていただいたことなど恩にも感じていなかったのです。
「親族の恥」と罵られたことだけが恨みとなって頭にありました。

 身構えて病室へ入ると、酸素吸入器をつけた叔父の姿がありました。
叔母が私が来たことを告げると、震える手を伸ばそうとするのです。
私はその手を握りながら、叔母が用意した椅子に座りました。
 私は叔父が何か言おうとしているのに気づきました。
そのことを叔母に伝えると、叔母は酸素吸入器を外して、
耳を近づけていました。
叔父の顔は、私を罵倒した時の顔とは全く違う顔でした。
安らかな柔和な顔でした。
目尻から涙が流れ落ちていました。
叔父の手が少し強く握ったように感じたとき「ありがとう」と聞こえました。

その瞬間私の目から涙があふれ「叔父さん、すみません」と両手で叔父の手を握って土下座していました。

その後も叔父は「ありがとう」をくり返していました。
その顔は清らかで安らかでした。
私の心から憎しみが消えていました。
ただ恥ずかしさだけがこみ上げてきて、涙がとめどなく流れ落ちました。
泣きながら帰ると、まもなく叔父は死んだと連絡がありました。