夏季公開仏教講座

第50回夏季公開仏教講座 「聞」(もん)     於 金沢東別院本堂

あれやこれやとあり、毎年、聞きに行けない日も多いのですが。

“お聞きしたら腹が立たなくなる”のではない・・・
“自分の思い通りにするために聞くのではない”と、わかりました。

腹が立ったら、煩悩で汚れきった人間の心(穢土)で解釈するのではなく、
穢土を離れ、向こう岸に渡り、仏の眼で見たらいいのかな?

7月29日、30日の両日とも、偶然にも
無量寿経下巻、冒頭部分での、<本願成就文>についてでした。
   諸有衆生 聞其名号  (しょうしゅじょう もんごみょうごう)
   信心歓喜 乃至一念 (しんじんかんぎ ないしいちねん)

29日の百々海真師は、東京からおいでました。

「このような仏法の盛んな北陸へ、講師として行きたくないなあ」と思った時、
聞法熱心な近所のおばあちゃんから教えられたことを話されました。

暁烏敏師が財政破たん寸前の東本願寺の総長を引き受けるときの言葉を引用
「引き受けないのも名利(みょうり)から、
 引き受けるのも名利から」。
どちらも、自分がよくみられたいからだと。

お話しのテーマは
「信心歓喜 乃至一念」についてでした。

30日の岡本英夫師は、島根県からおいでました。
仏教の学び方や、よき人に出会うことの大切さについて話されました。

「どちらが雨を実感できるだろうか」とおっしゃって、
次のたとえ話をされました。

ある男の子は雨を知るために、傘をさして外へ出て、雨を観察した。
一人の女の子は、雨の中へ飛び出し全身ずぶぬれになって雨を味わった。

お話しのテーマは
「諸有衆生 聞其名号」についてでした。

お二人のお話しされたことが、
仏教ブログ「聞其名号 信心歓喜」にわかりやすく書かれてありました。

本願成就には、 

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元に戻って「下巻」の本願成就文であるが、
本願成就とは我等の身の上に救済が成就するということである。
これが親鸞の不滅の仕事である。
このことを仏教三千年の歴史で親鸞が始めて明らかにした。
本願成就とは如来の救済によって我等が信心決定して
現生にお助けを得るということである。
それ以外に本願成就はないと親鸞が始めて明らかにした。

 (曽我量深著『曽我量深選集11巻』310ページ)
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「聞」(もん)と言うはも、岡本英夫師が話されたことと同じだなあと、
改めて読ませていただきました。

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 また、「聞く」とは、仏心をいただくという不思議体験としての歓喜により、          仏説に対するすべての疑いが晴れることをいいます。
信心獲得の経験によって生ずる智慧が無明を破り、
煩悩を浄化させていくので、
智慧が〈証大涅槃〉、すなわち成仏の因となります。

欲望や煩悩で汚れきった人間の心がつくる世界を〈穢土〉とし、
穢土(えど)を離れた向こう岸を〈浄土〉とします。
穢土を離れなければ穢土を見ることはできません。
穢土を離れ向こう岸に渡り、向こう岸から穢土を見ることを悟りといいます。

そして、この悟りの眼(仏眼)の生じた人を仏というのです。
信心の人は煩悩を断滅していませんので〈仏〉ではありませんが、
〈仏に等しい〉人と讃えられます。
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