如来さま

「暑くて散歩にいけないねえ〜」

ナナちゃん、私はこんな風になれないのよ。
身を投げ出して、裸になれたら楽なのにね。

如来」とは・・・
仏教講座のお話と重ねて読ませていただきました。

講師の方が伝えたかったのは、
このようなことだったのだなあ、とうなずけます。

郁ちゃん
あなたは私の「如来さま」です。

   
全休さんの仏教ブログより
「如来」とは・・・
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如来」とは、さとりの智慧(の働き)、さとりの智慧(の働き)のことであり、
智慧の生じた人、あるいは釈尊その人。
また、智慧とは、人間の心がつくって見せる迷いの世界である「三界」を超え出たときに、この智慧は生ずる。
「三界」(人間の心)を超え離れるので、
一切の衆生の苦悩とまよいの生活がありのままに見える。
それゆえ「無蓋の大悲」を生じて、三界を矜哀(こうあい)したまう、と。

 人間の心への深い愛着と、
人間の心の表面を厚く覆う迷いの心のために、
智慧は働かずに永く眠っていたが、
仏の教え(道教)に出会い、善知識に導かれ、
心に本来的に内在した智慧が働きだす一瞬の転機が起こったのである。
それを仏に「値(あ)いたてまつる」という。
内なる仏性、仏の種である智慧と慈悲が働きだしたのである。

 智慧のある人を「如来」ともいいますが、
智慧には迷いの心をよく見せて、
迷いの心を離れさせる自利の働きと、
その智慧を他へと振り向けて、他もまた自分と同じ仏への道を歩ませたいと願わせる利他の働きがあり、
そのような自利利他の智慧の働きを施し与えて救うので、
「群萠(ぐんもう)を拯(すく)い恵むに真実の利をもってせん」といいます。

迷いの世界に深く沈んで、なにが苦かも知らずに苦しみ、
苦悩の本当の原因がなにかもわからず、無駄に苦しんできたが、
この生においてようやく仏の教えに出会って、法を聞くようになった。
これだけでも稀なこと、尊いことであるが、
苦悩の根本原因である人間の心への執着を捨てて、
命あるうちに仏の心に出会ってほしい。

 南無阿弥陀仏
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