小学二年生に「カラマーゾフの兄弟」

浅野川 紅葉

いつでも会えるね アオサギくん

宇野正一先生の教え子です、とお便りをくださった“三太郎”さんが、
先生のエピソードを教えてくださいました。
小学二年生にカラマーゾフの兄弟とは、驚くばかりです。

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宇野先生は大層な読書家で、好きな文学作品を生徒の前で朗読されていました。
とりわけ好きだったのが、ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟
埴谷雄高の死霊、シルバーバーチの霊界通信でした。

小学二年生の生徒に対して、世界文学の最高峰ともいえる作品を読み聞かせるのですから、聴かされる方は何が何だかわからず、
さすがの腕白坊主たちも毒気を抜かれ、黙って聞いていましたね。

何故そんなことを覚えているのかと言えば、私が長じて20歳前後になったとき、
むやみやたらに文学書にあたっている時期があったからで、例えばカラマーゾフを読んで、
ここはあの時先生が朗読してくれた個所だと判別できたからです。
従って私の読書遍歴にない作品については、出典は分らずじまいです。

さて、ここからが本題です。
先生が朗読してくれた、その個所と言うのは総て、宗教体験に関するエピソードだったのです。

例えば、今の日常生活や世間的な享楽に満足できない青年が、
線路上に横たわり、その上を列車に通過させ、自らを卒倒させる場面、
そしてそれを境に、青年が生き方そのものを変容させる場面。

こういう内容と言うのは、ある種の感じやすさの問題ですから、
先生は「大人も子供も関係ない」と判断したのかもしれませんね。

そして朗読の最後に先生は、ヨハネ伝の、
「一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、
死なば多くの実を結ぶべし」
の解釈について小学生に問うたのです。
お前はどう考える?と。

この矛盾に満ちたキリストの言葉の解釈は、それこそ百人百様でしょうが、
先生の解釈は、本能にまかせた享楽的な生き方からの脱却、
というような意味だったのではないでしょうか。
そしてそれを実現させるには「死の体験」が不可欠であると言いたかったのではないでしょうか。

今現在の私は、読書と言えば経済紙と経済本ばかりで、文学書は読みません。
ただ、小学生の一時期と20歳の時にそういう体験をしたことが、
どこかで自分の力になっていると感じています。
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“三太郎”さん、貴重なエピソード有難うございました。
教育委員会にしっかり管理された現在の教育現場では、
ユニークな先生との出会いは、次第に難しくなってきましたね。

宇野先生の消息を知りたいとのことですが、
宇野先生は大正5年生まれで、住んでいる地域も違い、年齢も離れていて、
私はお会いしたことはないのです。

昭和49年『ほたるとおじいさん』で新美南吉文学賞受賞。
仏法のご本を出されていて、
それを読まれた講師の方が、各地のお寺さんなどでお話しされていますね。

「命の重さと人間性」で、先生のCDの視聴ができます。
    
「樹に咲く花に咲く」(柏樹社・古書)
「あたりまえのすばらしさ」(東本願寺伝道ブックス)
が出ています。