『日本の子どもの詩』

昨日の続きです。
宇野正一先生が詩や作文の宿題を出したことに対して、教え子の“三太郎”さんが、
自分としては「作文」が重荷以外の何物でもなかった・・・と述懐されていて、
ほほえましく思いました。

小学校で“子どもの詩集”を作っていた私も同じように、成人した教え子から、
「詩や作文を書くのが重荷だった」
と、いわれたことがあったのです。

“三太郎”さんのおかげで、
「忘れかけていた大切な本」を30年ぶりに手に取った私です。
ああ、うれしいです!!

『日本の子どもの詩』 (1983年発行 岩崎書店

日本作文の会編・各県別・全47巻のうち、石川県のだけが手元にあります。
その時代は、石川敬信さんや勝尾金弥さんがリーダーとして活躍されていました。
本には、作品ごとに学校名、指導者名も載っていて、
私の教え子の作品も何点か取り上げられています。

      おなかぽんぽん
                  中島 学  小1

   せんせい
   ぼくは
   きゅうしょく のこして いるでしょう。
   ぼくは あれでも
   おなか ぽんぽん なんだよ。


       東京のあんちゃん
                   村上外志信  小5

   この前、あんちゃんが来た時、
   しゃべり方がちがっていた。
   ぼくは、いやだった。
   東京のしゃべり方になって、
   金沢のことばじゃなかった。
   なぜか、あんちゃんが、
   はなれていくような感じだった。
   そんなのは、いやだ。
        
                       *その頃は中卒で東京へ働きに行く子もいたのです。

ブログのチカラで“三太郎”さんは恩師に出会い、
私は教え子に出会ったのでした。

『日本の子どもの詩』は、
1918年『赤い鳥』が創刊されてからあとの60年間につくられた、
子どもの詩のおもなものが、年代順にならべてあります。
先に書いた子どもの詩は、この本の最後の年代「1970〜」のものです。

この頃から次第に世の中は合理主義へと進み、
子どもの周りから、土の匂いや家族の助け合う姿が遠のいていきました。
と同時に、自然とたわむれた感動や、生活に根ざした詩や作文が書けなくなり、
作文指導も弱まっていったように思います。

*我が国の児童詩教育は、
1918年(大正7)に創刊された児童雑誌「赤い鳥」のなかで、
北原白秋が児童自由詩運動を起こしたことによってはじまった。

義父が運営していた保育園の新築にあたり、
この本が出版されたと同じ頃学校を途中退職した私ですが、
気がついたら、保育者が書きとめる、幼児の“つぶやき集”を作っていたのでした。
現在は保育園の運営から退き、稲刈りボランティアをしています。

“三太郎”さんから寄せられた、宇野正一先生の感動的なエピソードは、
またあした、ごきげんよう・・・。