「無量無数といっていいほどの因縁によって」

ショウジョウバカマ

浅野川で助かった命のこと
あの時、あの場所を通ったのが、どうして泳げる私だったのでしょう。
通ったのが5分前でも、5分後でも助からなかったかもしれません。
どうしてあの時だったのでしょう。
いくら考えても不思議でなりませんでした。
私が助けたのではない。
仏様の大きな計らいの中にいた、と思わずにはいられませんでした。

小川一乗先生は、善いことをした時も、「無量無数の因縁によってそれをおこなっている」とおっしゃっていますが、
この日の出来事を言い当てるのにこれ以上の言葉はありません。


私の身に起こったもう一つの出来事、
「無量無数といっていいほどの因縁で」郁代が助からなかったことは、
すぐには受け入れられませんでした。
今でも「なぜ?」に戻ってしまいます。

そんな時はよく
『癌告知のあとで』   鈴木章子著 探究社 
を読ませて頂きました。

           「安心」
 
     私は癌患者
     今
     如来さまからいただいた役を
     果たしている
     これで
     いつ私の幕切れがくるのかは
     如来さまが知っている
     役柄を知って演じていても
     この安心
                     
         「卓球」

     我が子の悲しみを思うと
     あの少年らしい清清しさに
     見事にきまったスマッシュに
     拍手もできず
     相手のミスに
     “ラッキー”と叫んでいる
     愚かな母が ここにいる
     目連尊者のお母さんのお話を
     ふと思い出しました              

          「幸福をよぶ茶」

     誰から私の病を聞いたのか
     「幸福をよぶお茶」というのを
     売りに来た
     癌の末期患者が治るとの事
     「いつ死んでもよし」と
     生への執着離したつもりが
     こんな話きく度
     ふと そんな気になる
     仲仲 離しきれぬ手を見せてくれる