西田幾多郎  「我が子の死」

親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、
よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。
念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべるらん、
また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。
総じてもって存知せざるなり。
                      (歎異抄・第二章-3)
全休さんの「総じてもって存知せざるなり」より。


以前書いたことがある西田幾多郎の「我が子の死」が思い出されました。
子を失った親の気持ち、
読んでいると、そこにいたのは私そのものでした。
最後は次のように結ばれていて、
「ああ、本当にそうだったなあ」と心に沁みるのでした。

    我々はかかる場合において、深く己の無力なるを知り、
    己を棄てて絶大の力に帰依する時、後悔の念は転じて懺悔の念となり、
    心は重荷を卸した如く、自ら救い、また死者に詫びることができる。
    
    『歎異抄』に
    「念仏はまことに浄土に生るゝ種にてやはんべるらん、
    また地獄に堕つべき業にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり」
    といえる尊き信念の面影をも窺うを得て、
    無限の新生命に接することができる。

「我が子の死」    西田幾多郎       

 三十七年の夏、東圃(とうほ)君が家族を携えて帰郷せられた時、君には光子という女の児があった。
愛らしい生々した子であったが、昨年の夏、君が小田原の寓居の中に意外にもこの子を失われたので、余は前年旅順において戦死せる余の弟のことなど思い浮べて、力を尽して君を慰めた。
しかるに何ぞ図らん、今年の一月、余は漸く六つばかりになりたる己が次女を死なせて、かえって君より慰めらるる身となった。(中略)

骨肉の情いずれ疎なるはなけれども、特に親子の情は格別である、
余はこの度、生来未だかつて知らなかった沈痛な経験を得たのである。
余はこの心より推して一々君の心を読むことが出来ると思う。
君の亡くされたのは君の初子であった、初子は親の愛を専らにするが世の常である。
特に幼き女の子はたまらぬ位に可愛いとのことである。
情濃やかなる君にしてこの子を失われた時の感情はいかがであったろう。
亡き我児の可愛いというのは何の理由もない、
ただわけもなく可愛いのである、甘いものは甘い、辛いものは辛いというの外にない。
これまでにして亡くしたのは惜しかろうといって、悔んでくれる人もある、しかしこういう意味で惜しいというのではない。
女の子でよかったとか、外に子供もあるからなどといって、慰めてくれる人もある、しかしこういうことで慰められようもない。

ドストエフスキーが愛児を失った時、また子供ができるだろうといって慰めた人があった、氏はこれに答えて
“How can I love another Child? What I want is Sonia.”
といったということがある。
親の愛は実に純粋である、その間一毫も利害得失の念を挟む余地はない。
ただ亡児の俤を思い出ずるにつれて、無限に懐かしく、可愛そうで、どうにかして生きていてくれればよかったと思うのみである。
若きも老いたるも死ぬるは人生の常である、死んだのは我子ばかりでないと思えば、理においては少しも悲しむべき所はない。

しかし人生の常事であっても、悲しいことは悲しい、飢渇は人間の自然であっても、飢渇は飢渇である。
人は死んだ者はいかにいっても還らぬから、諦めよ、忘れよという、しかしこれが親に取っては堪え難き苦痛である。
時はすべての傷を癒やすというのは自然の恵であって、一方より見れば大切なことかも知らぬが、一方より見れば人間の不人情である。
何とかして忘れたくない、何か記念を残してやりたい、せめて我一生だけは思い出してやりたいというのが親の誠である。

昔、君と机を並べてワシントン・アービングの『スケッチブック』を読んだ時、他の心の疵や、苦みはこれを忘れ、これを治せんことを欲するが、独り死別という心の疵は人目をさけてもこれを温め、これを抱かんことを欲するというような語があった、今まことにこの語が思い合されるのである。折にふれ物に感じて思い出すのが、せめてもの慰藉である、死者に対しての心づくしである。
この悲は苦痛といえば誠に苦痛であろう、しかし親はこの苦痛の去ることを欲せぬのである。(中略)

最後に、いかなる人も我子の死という如きことに対しては、種々の迷を起さぬものはなかろう。
あれをしたらばよかった、これをしたらよかったなど、思うて返らぬ事ながら徒らなる後悔の念に心を悩ますのである。
しかし何事も運命と諦めるより外はない。
運命は外から働くばかりでなく内からも働く。
我々の過失の背後には、不可思議の力が支配しているようである、
後悔の念の起るのは自己の力を信じ過ぎるからである。
我々はかかる場合において、深く己の無力なるを知り、己を棄てて絶大の力に帰依する時、後悔の念は転じて懺悔の念となり、
心は重荷を卸した如く、自ら救い、また死者に詫びることができる。

歎異抄』に
「念仏はまことに浄土に生るゝ種にてやはんべるらん、また地獄に堕つべき業にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり」
といえる尊き信念の面影をも窺うを得て、無限の新生命に接することができる。
          (「藤岡作太郎著『国文学史講話』序」明治四十年十一月稿、第一巻)

藤岡作太郎
加賀国金沢(現・石川県金沢市)生まれ。
号は東圃・李花亭・枇杷園。
1890年に第四高等中学校を卒業。
ここでの同窓生に西田幾多郎鈴木大拙(貞太郎)がおり、
藤岡とあわせて「加賀の三太郎」と称される。