一切の有情は、みなもて世々生々の父母兄弟なり

ツクツクボウシ」「ツクツクボウシ
家のまわりで鳴いたのを、今日はじめて聞きました.


昨年の弟に続いて、つい先日は妹の主人が亡くなり、
何かと仏事が行われています。

作家の高史明さんは息子さんの死後、改めて「歎異抄」に深く出会い、
親鸞聖人の教えに目をひらかれ念仏する身となったことを話されています。
私も仏教講座などで何度かお聞きしましたが、
一番強く心に残っているのは、歎異抄・第五条でした。
よくお話しされていたと思います。
高史明さんの熱い口調が思い出されました。

  「親鸞は父母の孝養のためとて、
  一辺にても念仏まうしたることいまださふらわず。
  そのゆえは、一切の有情は、みなもて世々生々の父母兄弟なり。
  いづれいづれも、この順次生に仏になりてたすけさふらふべきなり。
  わがちからにてはげむ善にてもさふらはばこそ、
  念仏を廻向して父母をもたすけさふらはめ。
  ただ自力をすてて、いそぎさとりをひらきなば、
  六道・四生のあひだいずれの業苦にしづめりとも、
  神通方便をもてまず有縁を度すべきなり」と云々。
                         (歎異抄・第五条)


・・・・・・・
 私のその無明は、最愛の子の自死となってあらわれました。
親の無明、子の無明、さらにはその子の身辺をとりまく無明と無明とが、折り重なり、渦となり、暗黒の深淵を生みだしたということでございましょうか。
子が、まず、自らその深淵となって落ち、親もまた墜落したことでございました。
いかに大きな憤怒に襲われましたことか。

 憤怒は、まず、自分自身へと向かいました。
私には、その子の死は、私の希望の崩壊、自分の生きることへの敗北と感じられました。
敗北した自分が許せないように思えました。
ついで、その憤怒は、妻に向かい、さらには学校にも向かったことでした。
それは、怒りが火の渦となって燃えあがったといっても、なお、言いつくせるものではありません。
天を呪い、地を呪いました。
子どもの死を、いま私は、自分の敗北であったと申しました。


それは自力の敗北です。
その自力の敗北を、自力の敗北と見ることのできないのが、全身を焼き焦す憤怒であります。それが地獄です。
己れの全身が、地獄と化し、鬼となり、己れを責め苛むのであります。
歎異抄』の声が聞えてきたのは、その地獄のただ中にいたときでした。
いかなる縁があったのでしょうか。
 

 ばじめのうち、全然、(歎異抄を)読んで頭の中に入ってくるというようなことはございませんでした。
死んだようなものです。
実際、死んでいたと思います。
死んでいたとき、何をしていたか。
小学校を出て以来はじめて墨をすり、「南無阿弥陀仏」という字を、毎日毎日書いておりましたが、そこにどういう意味があったか。
なかなか口では言いにくい。
口で言葉にしてみても、大して意味がない。
ただ、毎日書いておりました。
一日何十枚となく書いております。
知り合いの人が妙な顔をしていましたが、そうせずにおれなかった。
そしてやっとある日、生き返りました。お正月です。

 子どもの死後、半年ほども過ぎて、
女房が「仏様の顔を見に行きたい」と言うものですから、
「じゃ、奈良か京都へ行こう」ということで旅行へ出ました。
奈良の田んぼの中の道を歩いておりましたら、
周囲が突然に、パッと黄金いろに輝いて見えました。
自然現象としては、お日さんが沈みかけたということでしょう。
しかし、その前だってお日さんは、
毎日毎日出ては沈んでいたわけでございます。
その時のお日さんは、大地を輝かしていました。
私は思わず女房をふり返りまして、
「これは一体、何だ。みんな生きとる」と言いました。
「これは一体、何事が起こったんだ。お前、見えるか」と言いますと、
「私にも見える」と言います。


 やっと、その時に生き返った。
その後になりまして、やっと、この『歎異抄』の、
「まず有縁を度すべきなり」
という教えが何かということが、頭の中で言葉として整理されて考えられるようになってまいりました。
それまでは、毎日念仏だけを書いておりました。
そして生き返った。
              「深きいのちに目覚めて」(高史明著)より
・・・・・・・