ちからなくしておわるとき

「きれい!」と眺めていたら、
「これがあの“トリカブト”の花ですよ」と、
通りかかった人が教えてくれました。
でも、やっぱりきれいです。


上高地にて


昨日のお釈迦さまの本当の教えにありましたね。

「いろんな方や状況にご縁をいただいて私ができているので、
私というものは実はないのです。
無、空ということらしいです」


時を同じくして、いつもお世話になっている全休さんが、
「“わたし”などというものは実在しない」
と書かれていて、びっくりしました。
“我執”が強いわたしのために、何度も何度も書いてくださいます。

ちからなくしておわるときを引用させていただきます。

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  なごりおしくおもえども、
  娑婆の縁つきて、
  ちからなくしておわるときに、
  かの土へはまいるべきなり。

  (歎異抄

 「風前の灯火」というが人の命はまことにはかない。
どの命も明日生きている保証はない。
人は死を深く恐れているが、体失を恐れているのではなく、
実は“わたし”がなくなることを恐れている。

頭は“わたし”がないという状況がわからない。
わからないから恐ろしい。

 “わたし”は頭がつくったただの観念でありもともと実在しないのだから死ぬこともない。
これを“わたし”がないという意味で〈無我〉という。

頭がつくった“わたし”があると思うことを〈我執〉というが、
“わたし”などというものがないとわかってしまうことを我執は恐れるのです。

 真宗では〈自力無効〉というが、信仰とは無我を経験する、
この一点に尽きている。

いずれにせよ“わたし”がないと気づいた瞬間に自我の夢から目覚め、
自我のための人生も終わる。

〈往生〉というが、往生とは往生する者、
つまり“わたし”がなかったと知ることを〈往生〉というのです。

 生死が明らかになれば人生問題は自ずと解決する。
その理由は“わたし”がすべての問題をつくっていたのであるから“わたし”がなければすべての問題はなくなる。
人生問題など最初からなかったと知るのです。

 南無阿弥陀仏
・・・・・

有難うございました。