「仏教の根本にあるもの」 2
「仏教の根本にあるもの」より 2
大谷大学学長 小 川 一 乗
ききて 金 光 寿 郎
金光: それじゃ、「人間がその行いによって、自分がどういうふうになるか」というのをそこで、「行為によって、自分で決めていくことが出来る」。
そういう意味では、非常に、「束縛が解かれた世界」を説いていらっしゃるわけですね。
小川: そうですね。例えば、「自分が何をするか」という、「自分で決断した」と、人は言うけれども、さあ、ほんとに自分で決断したんでしょうか。
「周りのいろんな条件がそういう決断をさせたのであって、自分がしたわけじゃない」ですね。
そのところを、「人間は自我が強い」ですから、
善いことをした時は、「私がした」と言いますね。
金光: そうですね。
小川: 「悪いことが起これば、社会が悪い」と、責任転嫁しますね。
しかし、「善いことも、悪いことも」考えてみれば、
「周りのいろんな因縁の中でそれを行っている」ということなんで、
そこのところを、お釈迦様は、
「無量無数といっていいほどの因縁が」、
もう少し理屈っぽくいうと、「条件が」この私を形成しているということをお説きになられたんだけれども、
それを聞いた大乗仏教の菩薩たちは、
その「因縁を如来」と言い換えて、
「無量無数の如来様が、仏たちがこの私たちをお作り下さっておる」と。
そういうふうに、深いところで、その釈尊の教えを了解していったということがあるわけですね。
金光: ただ、今の言葉尻を承りますと、
「いろんな条件が私をこうさせた」と言います と、
「バスをハイジャックするのも、そういう条件がさせた」。
それはそうでしょうけれども、「自分の責任というのは、そこには見られないんじゃないか」と思うんですが。その辺はどうなるでしょうか。
小川: それはああいう事件を客観的に対象化して考えると、
そういうことになりますけれども、私から言わせると、
このお釈迦様の教えを、
「あの少年が、親から、或いは、教育の場でもいいし、先輩でもいいし、
何らかのご縁の中で、このお釈迦様の教えを、もし聞いておられたら絶対ああいう行為はしなかっただろう」と、私は思います。
金光: そうしますと、仮に、自分では全くそういうことを予想もされなかった章子(あやこ)さんが、お医者さんに行ってみたら、「癌」ということになっている体を教えられたわけですね。
これも勿論、「縁によってそうなった」ということなんでしょうけれども、
そこでもう一つ、「何で私が」とか、やっぱりいろんなことをお考えになると思うんですが、これは、随分、後の詩のようですけれども、
「安心」という詩がありますね。
「あんじん」と読むのかも知れませんが、
「安心」
私は癌患者
今
如来さまからいただいた役を
果たしている
これで
いつ私の幕切れがくるのかは
如来さまが知っている
役柄を知って演じていても
この安心
(鈴木章子)
ということなんですね。
先程のバスのハイジャックの話を伺いながら、
「仏さまの、仏教の話を聞いていたら、そういうことはしないだろう」とおっしゃいましたが、やっぱり、
「私の役柄は、如来さまがご存じの役柄で、如来さまとの繋がり」がここにある詩のように、「あれば、勿論、ああいう行為は出来ない、ということになるだろう」と思うんですが、
しかしここへ行くまではなかなか大変でございましょうね。
小川: 今、私が、「仏さまの教えを聞いておったならば、あの少年はああいう行為はしなかっただろう」ということを申しましたけれども、
「必ず、しない」とは言い切れません。
これはやっぱり「ご縁のまま」ですから、こんなことを言っている私が、
「明日何をするか分からない」。
そういうのが人間ですからね。
しかし、それもすべて、「ご縁のまま」という広い世界に目を開いていった時に、
「ご縁」というと、ちょっとなんとなく、それよりも
「如来の働きの中に身を置いているのだ」という言い方、
「ご縁の中に身を置いている」のと同じことなんですけれども、それを、
「如来さまの働きの中に身を置いている」と言い切っていける世界ですね。
そこに妹の詩の、「本当の人間の安心」「安らかさ」と申しましょうか。
そういうことを見いだした詩じゃないでしょうか。
金光: そう思いますね。「如来さまのお仕事を自分がしている」という場合には、「自分」という、「私が」という意識はあまり強くない世界になっているわけでしょうか。
小川: そうだと思いますね。よくお念仏の教えを頂いた方々の有名な言葉に、
「如来様から頂いたいのち」という言い方がありますね。
それと同じようなことです。
私の関係するところのお婆さんが、これは相当ご年輩の方なんですが、若い時にお子さんを亡くした。
その時に大変貧しい、忙しい時代に、
「子供一人が亡くなったから」と言って、「泣いておれない」と言って、「泣くまい、泣くまい」と、「涙を流すまい」といくら我慢しようと思っても、両目から涙が流れ出てくる。
「止めよう止めよう」と思っても涙が溢れ出てくる。そして、
「人が生まれて死ぬ、ということは一体どういうことなんだろうか」と。
「その問題がハッキリしないと、仕事をする、働く元気が湧いてこない」と。
そう言って、仏さまの教えをひたすら聞いたご年輩の方がおられました。
その息子さんが私に言いましたのは、
「母の流した涙は、母が流したんじゃないんですね。
母の涙であれば、止めようと思ったら止められる。
いくら止めよう、と思っても出てくるということは、母の涙は如来様の涙だったんですね。そのことがやっとこの歳になって頂けました」
というような話がございました。
そんなことでご説明すれば少しお分かり頂けるんじゃないでしょうか。
ですから、この妹の詩の中で、
「如来さまから頂いた役」ということを言い換えれば、「如来さまから頂いたいのち」であり、
「母の流した涙は、如来さまの涙であった」
と言い切っていける世界ですね。
そうすると、そこは、「私という思いすらも頂きもの」だった。
金光: ええ。そうですね。
小川: 人間は、「私」という思い抜きにしては生きていけませんけれども、 「私という思いすらも、頂いたものだったんだなあ」というところに、目を開かせて貰うと、何か広い世界に出ていくんじゃないでしょうか。
(つづく)
郁代も、如来さまからいただいた役を果たしていったのですね。
鈴木章子さんと郁代が重なり、
私の目から如来様の涙が流れます。