煩悩成就のわれら

あの日の千畳敷


故・松本梶丸師のお話し、近くのお寺で以前何度もお聴きしました。
そのお話しがネットにも載っていたのですが、
なつかしく、再度読ませていただきました。

善人とは暗い人、悪人とは明るい人
                       本誓寺  松本梶丸

 ある方が曽我先生に、善人悪人ということはどういうことかお尋ねになった時に、即座に曽我先生が答えられた言葉が、
「善人とは暗い人、悪人とは明るい人であります」だったのです。

 何か法律にふれたり、悪いことをしたりあるいは邪険な人、
そういう人を悪人と。
仏さんのようにやさしくて何の罪も犯さない、そんな穏やかな人を善人という、そういう既成概念が、頭の中にこびりついていますから、
どうしてもこういう言葉にうなずけないわけですね。

善人とはどんな人かというと、自力作善の人と親鸞聖人はおっしゃいます。         自分の意志で善を行い、悪を止めることが出来ると思っているのです。
それを善人というのですね。

 六十歳になったら腹が立つということがなくなってしまった。
悪口もまったく出なくなったと、そういう仏さんみたいな人がいるでしょうか、いませんね。
いくら悪いと分かっていても、人間の力ではそれを超えることが出来ない。
たとえば他人に迷惑をかけないということも、人間の計らいで全うできると思っている人を自力作善の人というのです。
出来ないことを出来ると思っている、そう決めたら決めたようにいくかというと、そうはいかないわけです。

今、こちらから皆さんの顔を見ていますと、皆さんの顔は安らかで仏さんのようなお顔、
休火山ですね。
いつもそんな顔でいられると家庭もどんなに平和でしょうか。
しかしそんな安らかな豊かな顔も、
縁がいたって、皆さんが家に帰って誰かから、カチーンと胸を刺されるようなことをいわれますとたちまち活火山になります。
これが煩悩というものの正体です。

確かにここにあるけれども、人間の意志で煩悩を支配することはできません。
私のものだけれども、私を超えたものが煩悩です。
自分のものだけれども、自分のものでない。
自己の内なる他者。
親鸞聖人は煩悩成就(ぼんのうじょうじゅ)のわれらと言われます。

煩悩成就ということは完成しているということです。

ここにおられる皆さんは完成品なのです。 
完成品というと何かうれしくなりますが、
実は煩悩が完成している人ばかりです。
その一点において我われは平等の地平です。
御同朋・御同行です。

 だから信心といっても、何も難しいことはない。
煩悩は完成して、具足しているのです。
残念ながら人間の知恵や眼でそれを見る用らきが、人間の側からはないのです。
なぜ仏法を聴聞することが大事かというと、たくさんの知識を覚えるためではありません。
たまたま私が紹介する親鸞聖人や蓮如上人、
そういう仏さまの言葉に出会うということです。

親鸞聖人や蓮如上人の言葉が仏さまです。
仏さまの言葉には必ず光明・名号という用らきがあります。
光明は智慧です。
名号は呼びかけです。
仏さまの言葉には必ず呼びかけ照らしてくださるという、
智慧の用らきがあるわけです。
こういう聞法の場というのは、そういう仏さまの智慧をいただく場所なのです。
いただいた智慧をもって皆さんが帰っていかれる現実の世界が聴聞の場所です。

善悪の問題ですが、誰でも善いことをしよう、悪いことは止めよう、
これが人間の自然の摂理です。
しかしどれだけ善を求めても、どれだけ悪を憎もうとも、
それとは無関係に善悪というものは業縁によって湧いてくるものです。
私の意志で、選択できないのです。
選択できれば楽ですね。
ところが頂いた縁によって、善も悪も湧いてくるんです。
人間の力ではいかんともすることの出来ない厳粛なものです。

これを業(ごう)という言葉で表現します。
煩悩を身としているものが業です。
我われは何を依り処として生きているかというと、
分かっておる、知っておるという人間の知識、人間の知恵を、
何よりも確かなものとし、依り処として生きています。

皆さんの知恵や眼は、これまでの人生の中で、どれだけたくさんのものを見て、どれだけたくさんのものを知ってきたかもしれません。
しかしたったひとつ見忘れ、たったひとつ置き忘れたものがあります。

それは何かというと一番近くにある足元、我が身であります。

「とおきはちかき道理、ちかくは遠き道理なり、燈台下くらし」
蓮如上人はおっしやいますね。
そういうところに、人間の愚かといわれる所以があります。
                   
本光寺ノート2」より抜粋