「仏の御いのち」
白い塀に真っ赤なカラスウリ 美しきかな散歩道
すべては「仏の御いのち」であるから現実を憎むことは仏を憎むことである。
全休さんの文章を読ませていただいて、郁代の最期の言葉が思われました。
「これまで、お母さん、完璧やったわ。
必要なもの、必要なことが、いつも直ぐに用意されていたもの…」
郁代はこの時、「仏の御いのち」を生きていたのではないでしょうか。
善悪の二つ存知せずより
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われらは受け入れられない現実を外敵のように思うが、現実が問題なのではなく現実を受け入れない心が問題だと知らなくてはならない。
現実を敵とする者は自分はいつも現実の可愛そうな被害者で自分は常に悪くないと思うが、
それが「罪悪深重の凡夫」の「罪悪」である。
親鸞は自らにいう「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり」と。
その理由は「わたしは仏ではないからだ」と。
これが現実を完全に受け入れた「自我の死」である。
現実が仏である。
すべては「仏の御いのち」であるから現実を憎むことは仏を憎むことである。
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