我が身の事実

「これは治せません」と医師から言われ、
かえって落ち着いたと昨日書いたところです。

全休さんは
   もともと人間の心は清浄無垢なものだと前提すること自体、
   人間の心の本質であるところの傲慢さを証明している。
   親鸞は人間は「愛欲と名利」でできていると教えている。
   わたしたちは「我が身の事実」をまだ見ていない。
とおっしゃいます。

教えを通して、「我が身の事実」をいつも気ずかせてくださる方がいるこの安心、
有難く思います。

全休さんの仏教ブログから

 竹内先生の法話 五

 親鸞がいっている言葉の中に
「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は」(歎異抄・後序)とある。
つまり、現代は「煩悩具足の凡夫」と気が付いていないということです。
煩悩具足の凡夫ということは、
わが身があって煩悩があるというわけではないのです。
煩悩している処に我が身が成り立っている。
私が劣っているから凡夫だということではないのです。

 煩悩ということが一つの行為を作り、
その行為が潜在的な力となって次の煩悩を作っていくという、
煩悩から業が起こり、その業からまた煩悩を生み出していく。
その繰り返しではないでしょうか。

そういうあり方を離れられない処に凡夫という意味がある。
しかも、煩悩具足の凡夫とは
「仏かねてしろしめて、煩悩具足の凡夫とおおせられたること」(歎異抄・第九章)
とあるように、
煩悩具足のものを無上涅槃に蘇生せしめるという、
大悲大智に呼び覚まされたところの我が身の事実です。

 実業の凡夫という言葉がある。
しかし、その中心になっているのは何かというと、
自己保身ということでしょう。
その自己保身の根源力となっているのは具体的には何か。
それは愛欲と名利です。
ですから、親鸞が八十歳を越えて更に大きく叫んだ叫び、

「誠に知んぬ、悲しき哉、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、
名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、
真証の証に近づくことを快しまず、恥ずべし、傷むべし」
とおっしゃる。
それは無意識よりももっと根源的なあり方を明らかにされている。

私の愛欲というものは私があって起こすのではなくして、
それを起こしてくるその深さを如実に現している。

 最近は人間の存在のより根源に無意識ということをいう。
そんなことをもっと超えた
本当に愛欲の広海と名利の太山ということが今の私を一番動かしいる根源にある。
自己保身させていく一番根源に働いている力。
もっといえば、無限の過去から愛欲と名利とを離れ得ない深さがある。
それを親鸞
「そくばくの業を持ちける身にてありけるをたすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」(歎異抄・後序)
とおっしゃるのではないか。

 (平成三年二月・第一例会の法話より 2)