摂取不捨

金沢東別院で毎年行われる、
公開仏教講座「聞」(もん)に時々出席しています。
例年だと夜の御堂は、風があったりして涼しいのですが、
今年はいつまでも暑いです。











昨夜の講師は京都大谷中学・高等学校校長の真城義磨師で、
これまでにも何回かお聞きしました。
とてもわかりやすくお話しされます。



親に言いたいことを書いた、子供の作文の紹介がありました。
次の二点が多かったそうです。


◎ くらべないでほしい
  「お兄ちゃんはあんたみたいなとき、こんなことできたよ」


◎ 点数でみないでほしい
  テストで100点とったら「すごいね!」と抱きしめてくれたが、  
  50点の時は 「隣のSちゃんは100点だって・・・」


お利口な子供なら愛せるが、思ひ通りにならなけば
「あんたなんか私の子供じゃない」と切り捨てる。


年を取るのはいや、病気になるのはいやと、
いつでも嫌なものは捨てたいのが、我々の本性です。


親鸞聖人は9歳の時、
比叡山延暦寺に登り修行を始めました。
20年間、血の出るような精神的、肉体的努力をしても、
決して本当の安心を得ることが出来なかった聖人は、
29歳の時、山を下りる決心をしたのです。
すでに比叡山を下りて念仏の教えを説いていた法然上人のもとを訪れ、
その教えを受けることになりました。


本願念仏(ほんがんねんぶつ)の教えとは、
無条件であなたの全存在を認めてくださる仏様の願いにふれること。
どんなあなたでも見捨てない仏の願いが私たちにかけられていますよ、
それが「摂取不捨」(せっしゅふしゃ)。


「どんなになっても、生きていける、死んでいける」
という本当の安心に出会われました。


その人はその人で「よし」という、私は私で「よし」という、
いや、「私でよし」でなく「私でよかった!」という世界です。